Job Description 4: 両替商 【ヴェニスの商人】
  貿易都市として絶頂期にあった16世紀ヴェネツィアを舞台とするこの映画は、時代考証やシェイクスピアによる原作戯曲に基本的には忠実ながらも、ユダヤ商人であるシャイロックを中心人物に据えることで人種差別や法正義論など今日にも通じる戯曲の一側面を浮き彫りにさせ、現代的なテイストを存分にそなえた良作となっています。

  主演のアル・パチーノはこの作品でその豪放かつ繊細な演技力を全編に渡って発揮し続けるのですが、今回はこの“アル・パチーノがシェイクスピア作品を演じる意味”をテーマに少し書いてみようと思います。とはいえそも彼のファンにとっては周知のごとく、アル・パチーノのシェイクスピアに対する情熱は尋常なものではありません。有名なところではたとえば、1996年のドキュメンタリー作品“リチャードを探して”。シェイクスピア戯曲中でも難解な“リチャード三世”を舞台に仕上げる過程を追ったこの作品で、彼は自ら製作を担いメガホンを採り、脚本を書いて主人公として出演もしています。

  ではなぜ稀代のハリウッドスターがいま、シェイクスピアなのか
  現代のハリウッド映画を考えるうえで欠かせない要素の一つに、“アクターズ・スタジオ(The Actors Studio)”の存在があります。第二次大戦後エリア・カザンらによりNYに生まれたこの演劇学校は、リアリズムを志向する演劇理論“スタニスラフスキー・システム”(少しでも演劇論をかじった人ならまず知らないことはないといって良いものです)を採用し、同校出身者たちの出演する20世紀後半のハリウッド大作映画群を通じてその影響力を世界的なものとしました。日本では昨今NHK系列で深夜によく放送されている“フランシス・コッポラ自らを語る”、“アンジェリーナ・ジョリー自らを語る”というような番組シリーズでおなじみのかたも多いことでしょう。
  その後独自の洗練を遂げた“アクターズ・スタジオ・メソッド”とでも言える方法論の最大の特色は、‘映像的に自然にみえる’演技の追及にあります。演技に関心のないかたには少し想像しにくいことかもしれませんが、‘カメラなしで見て自然な演技=映像で見て自然な演技’ではまったくないのですね。映像的にリアルに見えるためには、そう見せるために磨かれた特殊な技術が多々必要なわけです。ハリウッド界でも名優と目されるロバート・デ・ニーロやダスティン・ホフマンなどアル・パチーノと同世代の役者たちにしても、エドワード・ノートンやショーン・ペン、ラッセル・クロウ(“マスター・アンド・コマンダー”[7/8記事]主演)等々といった後続する才能豊かな役者たちにしてもおしなべて言えることは、この意味での技術の引き出しを多くもっているということです。

  そしてこのメソッドから最も遠いところにあるのが、泣く子もだまる(眠る…)シェイクスピア戯曲群なんですね。なぜならシェイクスピア作品は主にその時代的な制約により、特撮技術も音響証明の類も一切のナレーションもなしに、もっぱら舞台役者のセリフだけで作品世界のエッセンスを全て表出しきれるように書かれているからです。にもかかわらずその深い訴求力によって、いまだに広汎な人々から支持され読み演じ継がれてもいます。映画俳優として円熟の域に達してなお自足しない人物が挑戦するには、まさに至上の高峰とも言える理由がここにあります。そしてこうした挑戦のなかにこそ、次なる表現領域の萌芽がありうることは言うまでもありません。
  結果としてアル・パチーノの試みが功を奏しているのか否かについては、ご覧いただくみなさんの判断にお任せしたいと思います。ただ準主役級の3人にいずれも、シェイクスピア作品の舞台俳優としてもハリウッドの映画俳優としてもすでに実績のある役者たちが抜擢されたゆえの長所短所が見られること(うち一人は“ミッション”[8/5記事]の主演ジェレミー・アイアンズ)、アル・パチーノの脚本に対する深い読み込みが凄みをもって窺えるのはむしろ声にならない演技のほうであることは、判断材料として参考までに付記しておきます。

  16世紀当時のヴェネツィア本島の雑踏やドゥッカーレ宮殿内部の様子を、CG処理等によりうまく再現している点も見どころの一つです。種々のトガリーヌやトーガ、色とりどりのサテンドレス等々の衣装群も非常に見ごたえがあります。監督は“イル・ポスティーノ”のマイケル・ラドフォード。「トリポリ沖で海賊に襲われたらしい」、「船がドーバー海峡で嵐に遭った」といったセリフからは、当時ヴェネツィアの商人たちにとってアドリア海の外こそが危険だらけの‘外海’としてイメージされていたことなどが想像されて興味深いものがあります。個々の出生地や民族宗教の違いに捉われつつも、コスモポリタンとしての“ヴェネツィア人”の意識に己の基盤を置こうとする登場人物たちの言動は、少し痛快でもありました。

"The Merchant of Venice (Il Mercante di Venezia)" by Michael Radford [+scr] / Al Pacino, Jeremy Irons, Joseph Fiennes, Lynn Collins / William Shakespeare [book author] / 131min / US, Italy, UK, Luxembourg / 2004

コメント

goodbye
goodbye
2006年9月1日1:37

もはや恒例の自己レス補注:(^^;;)
この記事本文だけだと、あたかも映像的に自然な演技法として件のメソッドが唯一無二のもののように読めてしまうかもだけれど、それは違います。またハリウッドの映像業界での内情を言えばそこにはもちろん、一つの流派には括りがたい動向が様々にあるはず。あくまで大雑把な流れとして。

たとえば小津映画やヨーロッパ各国のモノクロ時代の名作映画に登場する俳優たちの演技は、いまの目からみると多少たどたどしいものに映ることがありますよね。けれども(私見になりますが)それは演技力の優劣の問題ではなく、それを見るわたしたちの目がハリウッド流の演技術に慣らされてしまっているという面がとても強い。彼らの醸すたどたどしさは言わばかつてVHSに淘汰されてしまったベータのようなもので、現在の俳優たちの演技法もVHSテープがそうであるようにやがては過去のものとなるはずです。

ヨーロッパや日本の演技派俳優がハリウッド映画に進出した最初の作品などではよく、ちょっとぎこちない演技が目につくことがありますが(ex.ジュリエット・ビノッシュ、松田優作etc.)、だからといって彼らの才能がハリウッドの俳優たちに劣ると感じるひとは少ないはずです。スタイルの違いに慣れてないことによるぎこちなさが出るんですね。けれどそれもせいぜい80年代までかも。今や何のズレも感じさせずに中国の女優がアメリカの男優と共演できてますからね。染まってない映画文化圏はもはやインドとイランくらいかもしれません。“世界の総マクドナルド化”はこうして知らず知らずのうちに、わたしたちの視線のありかたにまですでに浸透を終えているのかもという話。

であればこそ、第一線の現場で次なる表現領域の可能性を模索するアル・パチーノの試みにはより一層注目に値する価値があるとも言えるわけです。

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