音のない世界
きのうテレビのニュースで
すべての教科を手話で教えるフリースクールの特集をやっていて、
耳の聴こえない子供たちとその家族の日々の生活や
学校での授業の様子などが丁寧に映し出された良い企画で、
片手間につけていたはずがいつのまにかテレビ画面に見入っていた。

なかでも「音を聞いてみたい?」というインタビュアーの問いかけに、
7、8歳の女の子がはにかみながら

「音は聞こえないほうがいい。
 車や街の騒音がうるさそうだから」

と答えていたのはとても印象的だった。
この質問自体に対して“なんてこと聞くんだろう”と
思ってしまった自分が恥ずかしいというか、
五体満足な人間の傲岸さというものを
自らのなかに見い出した一瞬だった。

それにしても生まれつき音の聴こえない少女が想う
“うるさそうな世界”とはいったいどんなものなのか。
しばらくそのことに思い巡らせていたところ、
ふと世界地図のことが連想されてきた。
 
 
世界とはこういうものである、
ということを人は歴史をもつ以前から語らい、
あるいは絵図に示してきたが、
その総体を自身の目で見たことのある人間は
現実にはこれまで存在したことがない。

人は遠くを見、音を聴き、匂いを嗅ぎ、
味わい、触れることでこの世界を感知する。
それら知覚の集積が“経験”となるわけだけれども、
視界はなにかによって確実にさえぎられ、
音は必ずかき消されるものである以上、
そうした一個人の経験によって世界のすべてを同時に
把握することは原理的に不可能だ。

そうしたなか世界地図というものは、
それら個人の知覚の集積であるところの“経験”を、
さらに集積させたいわば“共有された経験世界の縮図”として
いつの時代も存在し、更新され、描き写されてきた。

子供のころに簡易だが正確な世界地図をまず与えられ、
ネットのグーグル検索などではモニターを通してとはいえ
自宅の屋根の形状から地球大のスケールにまで
この世界の在りようを見渡すことのできる現代に生きていると
かえって想像しにくいことかもしれないが、
したがって世界地図とはかつて長きにわたり
その実用性や明証性にもまして、
“世界とはなんであるか”という思想の明示に他ならなかった。

大洋を渡る理由がなかった社会の人々にとって
この世界とは多くの場合海に囲まれた広大な島であり、
海はいずれ世界の果てに至って落ちると考えて何も問題はなかったし、
時によってはその島と海がおおむね円盤の形状を成しており、
一匹の亀がその深淵でこれら森羅万象を支えていることが
むしろ重要な意味をもつこともあっただろう。
 
そしてこのような世界観は誤りである、劣っている、野蛮であると
感じてしまうとすれば、そう感じてしまう価値観自体がすでに貧しい。
貧しいと言い切れてしまうのは、かく言うわたしのなかに
そのような意味での刷り込まれた貧しさを日々見い出しているからで、
この感覚は冒頭に述べた「五体満足な人間の傲岸さ」に
どこか通じるところがある。
 
 
成田空港を東へ飛び立つと、
アジア方向へ向かう旅客機の多くは
銚子につらなる九十九里浜を眼下にゆっくりと南西方向へ旋回する。
窓外の景色はやがて、房総半島の陸影をへて
東京湾や三浦半島を望み、よく晴れた日には
山地と海に囲まれた関東平野のほぼ全域を視野に収める。

旅客を乗せた飛行機がさらに高層圏を飛ぶ時代、
あるいは宇宙に飛び出す時代には、
一般の市民がたとえば日本列島ぜんたいの姿や、
あるいは大陸の形状を大きくその目で見渡せるのも
きっと当たり前のことになるのだろう。

生まれつき音の聴こえない少女が想う、“うるさそうな世界”の在りよう。
かつての航海者が感覚し、予感したであろう世界の手ざわり。
“共有された経験世界の縮図”としての世界地図。
これらに通底するなにかを感じるわたしはそのとき、
窓の外の光景にいったいなにを想うのだろう。
それだけが知りたくてきょう一日を生きていくというのもなんだか、
まんざらではないように思えてくる。
不思議だけれど。

 

コメント

ジェファーソン
ジェファーソン
2007年6月13日0:40

「事実は存在しない、ただ解釈だけが存在する」という哲学者やがいましたが、今の時代に認識する世界も「今の時代の見方」という解釈があるだけなのでしょうね。
もっとも、「今の時代の」なんて共通項もないのかもしれませんが。
遅ればせながら、リンク貼らせていただいてますのでご挨拶をば。
いつも味わいある文書拝読しております。

goodbye
goodbye
2007年6月13日8:05

現代は価値観の混迷している時代である、とか、日本はいまモラルハザードの時代を迎えつつある、というような大げさな物言いを時々耳にするけれど、ホントかなぁとよく思います。たとえば闇市の時代、戦争の時代に比べれば現代の価値観、道徳観は単に安っぽくなっただけじゃないかと。むしろ今ほど世界の多くの地域が画一的な物の見方に覆われている時代もないんじゃないか、とも。

だからその意味では、個別の差異が集団の差異を凌駕するということを前提として「今の時代の見方」というのはやはり強固にあるように思います。そして多くの人がそこに安住つつも漠とした不安を抱えているのもまた確か。でもぶっちゃけて言えばこういう心理って、救済思想や末法思想の新バージョンに過ぎない部分もきっとかなりあるんですよね。個人の願望としては、そうした不安にからめとられてあることよりは、いつも笑いとばせるくらいに肝の据わった物の見方を磨いていきたいところです。

話が少し変わるけれど、‘大航海時代Online’で未知の港を発見していくときの感覚って、史実の世界を背景におくMMOならではの楽しさがあるように思います。ゲーム内で他プレイヤーと共有している世界を押し広げてゆく感じも。そろそろまた、新しい港増やしてほしいなぁ。(笑) リンク&書き込み感謝です。さいきん何度か茶室でご一緒してるかたですよね^^ 

goodbye
goodbye
2007年6月15日20:24

↑ と書いたその日にアップデートの予告が@w@
http://www.gamecity.ne.jp/dol/ep3/cds.htm

でも「今夏登場!」って宣伝文句をみて、結局8月30日が「今夏」だった去年のことをたくさんのプレイヤーがすぐに思い出したはずw 期待値が前もって下がっているぶん、ここはポイントの稼ぎどころですよ光栄さま!(笑)  こんどこそはガラパゴスかもん>w<

nophoto
へたれ無差別海賊
2007年6月25日0:46

DOLでは敵ですが・・・
感じるところの多い文章が多いためか、ブログたまに拝見させて頂いております。
私は文章で表現するのが苦手なので気の利いたコメントはできませんが、レスをつけたい衝動にかられてしましました・・・。
無言の読者ではありますが、また読みにきます^^

goodbye
goodbye
2007年6月26日7:34

遠くの味方より近くの敵というか、ゲーム内では交戦相手となる海賊プレイヤーのほうが何かと通じるものが多いときもありますねぇ。

というかいまはその予定もないけれど、ゲーム内の事情次第では海賊になることがあってもいいなと思ってます。といってもわたしの場合はむしろ私掠軍人のほうにゲーム的なロマンを感じるタチですが。(笑)

コメント感謝でした^^ にしてもすごいペンネーム@w@

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