Job Description 9: 剣士 【アポカリプト】
2007年7月25日 就職・転職 コメント (4)
16世紀中央アメリカの密林の奥深く、スペインの侵攻を控えマヤ文明は最後の輝きを放っていました。映画の主人公ジャグァは辺縁の一部族に生まれ、妻子とともに部族間の熾烈な抗争にまき込まれてゆきます。
今回はポイントを3つに絞ります。全編マヤ語であること、敵役へのコンテンポラリーダンサーの起用、そして監督のメル・ギブソンについて。
◆全編がマヤ語
この作品が全編マヤ語で製作されたことは公開前から話題となりました。衣装にもセットにもこだわるのに言葉だけが現代英語(or日本製なら日本語)、みたいな歴史劇が普通に受け入れられるなかでこの達成は特筆に値します。むろんここには製作者の意図だけでなく‘全編字幕になっても現地語が良い’という方向への観客サイドの意識変化があることは言うまでもありません。“硫黄島からの手紙”[2006]や“バベル”[2006]といった高水準でかつ集客力のある作品にこうした傾向が見られることは、近年の大きな流れの一つと言ってよさそうです。
メル・ギブソンは前作(後述)でもアラム語(ヘブライ語混じり)やラテン語のみで脚本を仕上げていますから、もともとこういう映画を作りたかったのかも。
◆敵役へのダンサーの起用
主要キャストがほとんど前歴のない俳優たちで占められたことも話題に。もっともスコットランドの英雄を描いた初監督作の“ブレイブ・ハート”[1995]でも、メル・ギブソンは演劇学校を出たばかりの新人女優をヒロインに抜擢していますからこの点はさして驚くにあたらないのですが、そんななかで一人だけ出演者にフォーカスするなら、やはりラオール・トゥルヒロ(Raoul Trujillo)の存在は見逃せないところです。彼は本編のなかで主人公の青年を執拗に追い詰める戦闘的な部族の長ゼロ・ウルフを演じているのですが、壮年にも関わらず四肢の動きがいちいちキレと凄味を感じさせて、要するに無茶苦茶カッコよかったんですね。
とはいえわたしもこの役者を意識したのは初めてだったので、映画を観終わったあとネットで調べて驚きました。なんとこのひと、アパッチ族やユト族といったネイティヴアメリカンの血をひく、プロのコンテンポラリーダンサーだったのです。下記サイトの二人目に特集されているので興味のある方はどうぞ。
Native Peoples Magazine:
http://www.nativepeoples.com/article/articles/149/
さらに驚いたことに、わたしは前にも彼の演技を観ていたのです。このブログでも以前にとり上げたテレンス・マリックの“ニュー・ワールド”[2005]に出ていました。(というか当該記事[本ブログ2月24日記事]の画像の人物がそうです。‘DVDのながら観’だったからか意識化するに至らなかったものの、画像に使用したくらいなのでどこか引っかかっていたのかも)
プロの踊り手がアクション系の時代物で敵のボス役を演じている近例としては、日本では“たそがれ清兵衛”[2002]がすぐに思い浮かぶところです。現代舞踏家の田中泯はこの作品で妖艶なまでの剣技(というか足技)を披露してみせましたが、これは彼と戦う主人公を演じた真田広之が身体的な素養としても世界水準に達している役者であればこそでした。そうした意味で本作でのラオール・トゥルヒロの身体のキレを引き立てているのはジャングルの大自然と言えそうです。密林の土を足指でがっちりと踏みしめ、草葉を巻き上げて疾走していく姿は見応えがありました。
コンテンポラリーダンスというとなにか取っつきにくい印象もありますが、モダンダンスへの反駁というほか特に総括的な定義はないのが現状なので、非欧米圏におけるコンテンポラリーダンスの潮流としては往々にしてローカルな伝統文化に基づく身振りがクローズアップされてきます。この意味でラオール・トゥルヒロと田中泯の商業映画への起用とその成功には同じ論理が通底していそうです。個人的にこれは意外な発見でした。
◆メル・ギブソン監督作
メル・ギブソンの監督作としての前作“パッション (The Passion of The Christ)”[2004]は、血みどろのイエス・キリストを巡る表現が世上を賑わせましたが、本作“アポカリプト”においても残虐的な戦闘シーンはもとより、生贄の儀式や昆虫の首をもいで治療に使うシーンなど、その異色さは健在。この両作品で彼の映画監督としての立ち位置はほぼ固まったように思います。
以前この記事シリーズのコメント欄で少し述べたこともありますが(“ミッション”2006年8月5日記事)、やはりbloody-dirtyな手触りは彼の表現手法の根底に抜きがたく横たわっているようで、単に世間の耳目をひくために付加されたセンセーショナルな演出というよりは、むしろこうした暴力性の充溢こそが作品の本質になっています。
ただしここで注意しなければならないのは、映像表現として立ち現われてくるのはあくまで作り手もしくは受け手の内なる何かに過ぎないという点です。そのためこの場合であれば現代文明における‘暴力’が必ずしも他の文明にとっても‘暴力’たりえないのが当然である一方で、商業映画におけるストーリー進行は観客の共感を導くものであることが宿命づけられているために、他の文明を扱う際にはこの点での齟齬をどう乗り越えるかが大問題となってくるんですね。たとえば“パール・ハーバー”[2001]に登場する戯画的な日本人像に比べ、先にも挙げた“硫黄島からの手紙”でクリント・イーストウッドは極限下における人間倫理の普遍を描くことによりこの点をきっちりとクリアしていますが、メル・ギブソンは逆に徹頭徹尾アクション描写にこだわることでこうしたズレを無化する方法を採っています。
したがって“アポカリプト”の文明論的な部分を切り取って正しい正しくないと批評するのはそもそもがお門違いということにたぶんなります。たとえば生贄の儀式のシーンでマヤの司祭が民衆を前に現代の西洋人っぽい名声欲を丸出しにしたり、生贄の青年があたかも夏休みの旅行中に誘拐されて殺される前のバックパッカーのような反応を見せたりすることにはおかしさを感じざるをえないのですが、そこは監督本人もとうに開き直っているはずです。そもそもこの作品に比較文明論的な視座を見いだせるとしても、それは実際問題としてどうでもいいことなんですよね。最後のほうではスペインのガレオン艦隊が上陸を開始するシーンもありますが、やはり説明的な挿話以上のものにはなってなかったり。
メル・ギブソンは私生活では熱狂的なクリスチャンとして知られる一方で、“アポカリプト”公開前にはユダヤ人差別発言で物議を醸したりも。映画産業にユダヤ系資本が深く噛み込んでいる現状でこのパフォーマンスは致命的とも思えましたが、公開してみると真逆の大入り状態に。また俳優としての昨今のメル・ギブソンを観てみたいひとにはヴィム・ヴェンダース監督の“ミリオンダラー・ホテル”[2000]が一押し。すっごい変です。でも彼以外は考えられないほどのハマリ役。
“アポカリプト”の音楽を担当しているのはジェームス・ホーナー。“ニュー・ワールド”と同じです。ここらへんの調子の良さもメル・ギブソンならではかも。ここではいろいろと突っ込んだことを書いてますが、作品自体は頭をカラっぽにして楽しめる上質のチェイス物アクション映画になっています。おススメです。
"Apocalypto" by Mel Gibson [+scr] / Rudy Youngblood,Dalia Hernandez,Raoul Trujillo / James Horner [music] / 138min / US / 2006
※ 国内では先月半ば公開の新作ですが、早くも終了しだしています。これから観に行くかたはお急ぎを。レンタル開始はたぶん11月くらい。
今回はポイントを3つに絞ります。全編マヤ語であること、敵役へのコンテンポラリーダンサーの起用、そして監督のメル・ギブソンについて。
◆全編がマヤ語
この作品が全編マヤ語で製作されたことは公開前から話題となりました。衣装にもセットにもこだわるのに言葉だけが現代英語(or日本製なら日本語)、みたいな歴史劇が普通に受け入れられるなかでこの達成は特筆に値します。むろんここには製作者の意図だけでなく‘全編字幕になっても現地語が良い’という方向への観客サイドの意識変化があることは言うまでもありません。“硫黄島からの手紙”[2006]や“バベル”[2006]といった高水準でかつ集客力のある作品にこうした傾向が見られることは、近年の大きな流れの一つと言ってよさそうです。
メル・ギブソンは前作(後述)でもアラム語(ヘブライ語混じり)やラテン語のみで脚本を仕上げていますから、もともとこういう映画を作りたかったのかも。
◆敵役へのダンサーの起用
主要キャストがほとんど前歴のない俳優たちで占められたことも話題に。もっともスコットランドの英雄を描いた初監督作の“ブレイブ・ハート”[1995]でも、メル・ギブソンは演劇学校を出たばかりの新人女優をヒロインに抜擢していますからこの点はさして驚くにあたらないのですが、そんななかで一人だけ出演者にフォーカスするなら、やはりラオール・トゥルヒロ(Raoul Trujillo)の存在は見逃せないところです。彼は本編のなかで主人公の青年を執拗に追い詰める戦闘的な部族の長ゼロ・ウルフを演じているのですが、壮年にも関わらず四肢の動きがいちいちキレと凄味を感じさせて、要するに無茶苦茶カッコよかったんですね。
とはいえわたしもこの役者を意識したのは初めてだったので、映画を観終わったあとネットで調べて驚きました。なんとこのひと、アパッチ族やユト族といったネイティヴアメリカンの血をひく、プロのコンテンポラリーダンサーだったのです。下記サイトの二人目に特集されているので興味のある方はどうぞ。
Native Peoples Magazine:
http://www.nativepeoples.com/article/articles/149/
さらに驚いたことに、わたしは前にも彼の演技を観ていたのです。このブログでも以前にとり上げたテレンス・マリックの“ニュー・ワールド”[2005]に出ていました。(というか当該記事[本ブログ2月24日記事]の画像の人物がそうです。‘DVDのながら観’だったからか意識化するに至らなかったものの、画像に使用したくらいなのでどこか引っかかっていたのかも)
プロの踊り手がアクション系の時代物で敵のボス役を演じている近例としては、日本では“たそがれ清兵衛”[2002]がすぐに思い浮かぶところです。現代舞踏家の田中泯はこの作品で妖艶なまでの剣技(というか足技)を披露してみせましたが、これは彼と戦う主人公を演じた真田広之が身体的な素養としても世界水準に達している役者であればこそでした。そうした意味で本作でのラオール・トゥルヒロの身体のキレを引き立てているのはジャングルの大自然と言えそうです。密林の土を足指でがっちりと踏みしめ、草葉を巻き上げて疾走していく姿は見応えがありました。
コンテンポラリーダンスというとなにか取っつきにくい印象もありますが、モダンダンスへの反駁というほか特に総括的な定義はないのが現状なので、非欧米圏におけるコンテンポラリーダンスの潮流としては往々にしてローカルな伝統文化に基づく身振りがクローズアップされてきます。この意味でラオール・トゥルヒロと田中泯の商業映画への起用とその成功には同じ論理が通底していそうです。個人的にこれは意外な発見でした。
◆メル・ギブソン監督作
メル・ギブソンの監督作としての前作“パッション (The Passion of The Christ)”[2004]は、血みどろのイエス・キリストを巡る表現が世上を賑わせましたが、本作“アポカリプト”においても残虐的な戦闘シーンはもとより、生贄の儀式や昆虫の首をもいで治療に使うシーンなど、その異色さは健在。この両作品で彼の映画監督としての立ち位置はほぼ固まったように思います。
以前この記事シリーズのコメント欄で少し述べたこともありますが(“ミッション”2006年8月5日記事)、やはりbloody-dirtyな手触りは彼の表現手法の根底に抜きがたく横たわっているようで、単に世間の耳目をひくために付加されたセンセーショナルな演出というよりは、むしろこうした暴力性の充溢こそが作品の本質になっています。
ただしここで注意しなければならないのは、映像表現として立ち現われてくるのはあくまで作り手もしくは受け手の内なる何かに過ぎないという点です。そのためこの場合であれば現代文明における‘暴力’が必ずしも他の文明にとっても‘暴力’たりえないのが当然である一方で、商業映画におけるストーリー進行は観客の共感を導くものであることが宿命づけられているために、他の文明を扱う際にはこの点での齟齬をどう乗り越えるかが大問題となってくるんですね。たとえば“パール・ハーバー”[2001]に登場する戯画的な日本人像に比べ、先にも挙げた“硫黄島からの手紙”でクリント・イーストウッドは極限下における人間倫理の普遍を描くことによりこの点をきっちりとクリアしていますが、メル・ギブソンは逆に徹頭徹尾アクション描写にこだわることでこうしたズレを無化する方法を採っています。
したがって“アポカリプト”の文明論的な部分を切り取って正しい正しくないと批評するのはそもそもがお門違いということにたぶんなります。たとえば生贄の儀式のシーンでマヤの司祭が民衆を前に現代の西洋人っぽい名声欲を丸出しにしたり、生贄の青年があたかも夏休みの旅行中に誘拐されて殺される前のバックパッカーのような反応を見せたりすることにはおかしさを感じざるをえないのですが、そこは監督本人もとうに開き直っているはずです。そもそもこの作品に比較文明論的な視座を見いだせるとしても、それは実際問題としてどうでもいいことなんですよね。最後のほうではスペインのガレオン艦隊が上陸を開始するシーンもありますが、やはり説明的な挿話以上のものにはなってなかったり。
メル・ギブソンは私生活では熱狂的なクリスチャンとして知られる一方で、“アポカリプト”公開前にはユダヤ人差別発言で物議を醸したりも。映画産業にユダヤ系資本が深く噛み込んでいる現状でこのパフォーマンスは致命的とも思えましたが、公開してみると真逆の大入り状態に。また俳優としての昨今のメル・ギブソンを観てみたいひとにはヴィム・ヴェンダース監督の“ミリオンダラー・ホテル”[2000]が一押し。すっごい変です。でも彼以外は考えられないほどのハマリ役。
“アポカリプト”の音楽を担当しているのはジェームス・ホーナー。“ニュー・ワールド”と同じです。ここらへんの調子の良さもメル・ギブソンならではかも。ここではいろいろと突っ込んだことを書いてますが、作品自体は頭をカラっぽにして楽しめる上質のチェイス物アクション映画になっています。おススメです。
"Apocalypto" by Mel Gibson [+scr] / Rudy Youngblood,Dalia Hernandez,Raoul Trujillo / James Horner [music] / 138min / US / 2006
※ 国内では先月半ば公開の新作ですが、早くも終了しだしています。これから観に行くかたはお急ぎを。レンタル開始はたぶん11月くらい。
コメント
私は昔からピーター・ウィアー監督が好きなので、メル・ギブソンというと「誓い」を思い出します。演技が良かったうんぬんというより、ラストシーン…彼の叫びとそれに呼応したかのようなあの有名なショットが印象的で、忘れられません。
「ミリオンダラー・ホテル」は入りのシーンが印象的w自分は、あのスローモーション・ストップモーションの使い方にも驚きました。。ヴェンダースがあそこから評価が下がったと言う人もいますね。。個人的にはヴェンダースの映画と言うより、映画に対する接し方・姿勢が好きです!撮影の時間が余ったから撮ってしまう(LAND OF PLENTY)とかw
「誓い」、観てないんですよねぇ>< ピーター・ウィアー+ギブソンの取り合わせは観てみたいなぁ。で、最寄りのレンタル屋で聞いたら置いてませんでした;;
酔ったときに豹変しちゃうひとって、それだけふだん抑圧してるってことでしょうし大変だなぁとも思いますけどねw なんていうか、メル・ギブソンと話すことがあるとしても冗談のセンスとかまるで次元が合わなそうです^^;
CG技術がいかに発展しようと生理的に最も‘来る’のはやはり肉体に関する映像表現でしょうし、その意味でも彼の撮ったイエス・キリストの受難は映画の枠を少し越えて画期的なものだったのかもしれません。北野武もそうですが、ここには監督専業でやってきたひとにはできない種の‘遊び’が働いているように思います。
ヴィム・ヴェンダースはやはり年をとったということなんでしょうね。その時々の年齢でつくるものの味わいが変わることを拒むひともいますが、彼が逆らわずに受け入れるほうを選ぶのは何だかとても自然な気もします。いまの枯れた感じも悪くないですよねw