a life to say goodbye
【世界独航記ノ完】
  見かたを変えれば世界は変わる。月へ到達した船員による青い地球の写真が人の思考に与えた影響はなお図りがたいが、大航海時代の探検船がもたらす現実もまた時に精神の基盤さえ揺るがしたことだろう。この限りでは光も闇の不在に過ぎず、自意識など他者の鏡像でしかない。

■存在としてのインディアス
  中部インド洋上に浮かぶ小島へと上陸。島の様子を確認したのち自領と定め、鉱山開発に初手をつける。補給作業等を行って再び海へ。航海日数の記録によればこの島で30日を費やしたことになる。西進継続、マダガスカル島の北端を通過、モザンビーク港を経て喜望峰へ。インド洋の通過に思いのほか月日をとられた。

  ‘トルコ’や‘モンゴル’の語のもつ地理的なイメージの広がりが現代国家としての両国に限定されないように、大航海時代における‘インド’‘インディアス’(India,Indias: sの有無は使用言語と文脈による)の語のもつ広がりもまた現在のインド亜大陸のみを意味しない。だからコロンブスがアメリカ大陸をゴアやカリカットのある陸影と見誤って‘インディアス’と名指したという話は間違いではないが正確でもなく、この時代の先駆けにあって‘インディアス’とは異世界のほとんどすべて、より直截に言っても‘喜望峰より向こうの世界’というほどに茫漠とした範囲を指していた。
  従ってコロンブスによる‘発見’以降アメリカ大陸とカリブ地域が「西にある異世界」すなわち‘西インド’とされたのは必ずしも彼の見誤りを語義的に受け継いでのことではなく、同様に列強各国の東インド会社が日本や中国沿岸域を活動圏に置いたのもこの一帯が「東の異世界」に含まれる以上まったく自然なことだった。このことは東アジアがいまも‘極東’と称される由縁にも重なるが、ではそのような意味での‘インディアス’の語が究極的に志向しまた象徴的な基盤としたのは何かといえば、‘目に見えない絶対的な他者’の存在ではなかったかと、わたしには思えてならない。

■神なき世界のセイレーン
  一隻の船が他には何ひとつ見えない海原を進むとき、天災や飢餓や身体的な病と並び孤立感もまた航行上の大きな脅威であった。セイレーンの歌声に導かれて水夫は時に海中へと没したが、もとより自分が何者であるかという確信に揺らぎが生じれば、人は精神的な危機に抗う術をたやすく失ってしまうだろう。
  “私がいまここにある”という確信はどこまでも主観的なものだが、もし客観的な証明を志すならその論拠は自らの外部に求められることになる。だがルネサンスの進展が宗教論争とつねに連動したように、客観性を証す手段としての科学の発展が自己存立の基盤としての神の不在を囁く声の広がりと軌を一にする以上、己がより不確定となるその際に己の外部へ確定的な何かを逐次見出してゆけるはずもなく、唯一確実な論拠としうるのは結局不可視のものに限られるという矛盾に嵌る。自らの外部とは究極的には己の力では全く動かしえぬ存在を指すが、もしそれにより自らが完全に規定されうるならば“私”という存在もまた私自身の力では動かしえないものとなってしまう。そこでは“主体としての私”は一切失われることになる。かつてはそこに、神がいた。

  逆をたどる。“私”という主体が絶対的にまずここに“ある”とする。何が起きるか。彼/彼女は自身を変えることで自らを規定してきた外部との関係性それ自体に変化をもたらせうることになる。そして関係性の網目こそが事物を輪郭づける以上、このことは“私”による“私”を規定してきた外部の不変をも変容させうる力の所持を意味するから絶対普遍の神の摂理はここでいったん否定されてしまうのだが、神の不在を確信しきれない“私”はその時、己に関して“神を冒涜する存在”と“自らの内に神を宿す存在”という2つのイメージを両義的にもつことになる。
  つまり主観的には確信し、客観的には自己を規定する術をもたないが規定したいと願う己が“主体としての私”を生きようとする時、“私”は“私”の内外両面に絶対普遍のはずの神または摂理の代替物を抱え、ともに一方が他方を規定する唯一の存在であるはずの両者が互いにせめぎ合い影響し対立しあうというおかしな事態に直面する羽目になる。かよわき存在としての人間はここで何を求めるか。神に代わる絶対的な何者かを希求する。“神を冒涜する存在”としての己は許しを乞うてその何者かを神に差し出すが、“自らの内に神を宿す存在”としての己はその根拠を求めて彼らを支配する。いずれにしてもそこで一方的に犠牲となるのは外部としての‘インディアス’に他ならない。

  ユネスコの定める世界遺産の存在は、欧米列強による贖罪意識の現れだという話がある。非欧米世界の植民地化および冷戦構造と消費社会の帰結として全地球規模で侵され破壊されゆく自然や文化遺産に対し、いかに無関心を装おうとその現実的な損失を知るかぎり罪過の意識はまぬがれずしかし真っ当な神経ではとても耐えきれない。そこで無自覚の補償行為として現れたのがアスワンハイダム建設計画をきっかけとする世界遺産の指定とその維持修繕を志向する現象だという指摘がそれで、このことは人道支援系NGOの活動が世界で最も盛んな国が殺戮行為の実行と支援にもまた最も積極的である事実ともじかに響き合うものがある。
  個体発生は系統発生を繰り返すというが、この意味で現代の若者の多くが行う自分さがしの旅はそのまま西欧列強が国家としてたどってきた道にダブってみえる。物価のまるで異なる国で、先進国の若者は自らの自由に気づき、その自由を形作る暴力の存在をも確認する。あるいは無自覚のうちに感覚する。そこで来た道を戻って消費社会の光のなかに身を投じるとしても誰に責められるものではないし、むしろ彼/彼女が明晰であればあるほど自らのうちなる影に怯え目を背ける大人の一人となることを選ぶだろう。なぜならそこに十全たる救済の可能性はもはやなく、絶対的な他者としての‘インディアス’もまたすでに致命的なまでに損われ、失われているのだから。

■新大陸へ
  遠巻きにして喜望峰を通過する。モザンビークからヴェルデ沖までを無寄港で航行、カーボヴェルデを中継しセビリア沖へと北上、そのまま追跡艦隊との戦闘をこなして世界周航シナリオを終える。予定外に長く、そしてまた不思議と様々な思念に駆られる旅路となった。この日誌をつけるにあたっても当初は南極や地球の自転などに触れるつもりはまるでなかったし、ましてや月面に立てた旗にまで話が及ぶとは予想だにせず、書いていて自分でもその突拍子のなさが面白かった。

  ところで人類が最初に月面への着陸を果たした年は、米国防総省の下部機関でインターネットの起源となるARPANETが開設された年でもあった。世紀変わってそのインターネットが情報革命を推進させる現下の状況とは端的に、また新たな意識の在りかたが生まれ育ってゆく過程とも言えるのだろう。誰ひとり騒ぐのを耳にしないがたとえばカーナビからgoogle earthへと連なるようなツールが見せる日々の進化は、このような自己同一面での意識革命を飛躍的に加速させているはずだと思う。石油とエンジンによる機械的な物流から、原子力と磁力による電気的な輸送への転換も恐らくこのことを後押しするだろう。眼前の事物はますます生理によっては感覚しがたい何某かへと変わってゆくのだろう。しかしそれは同時に風のそよぎや波のうねり、星のきらめきにより己の立ち位置を知りえた時代に息づいていたものたちがまた一つ、そして一つと音もなく消えていく過程でもある。

  画像はインド洋上、自領とした小島にて。結局のところ世界とは脳漿を疾り抜ける光の束でしかなく、この両の掌でつくる球体ほどのうちに生起するなにものかでしかないという‘見かた’を身振りによって表現してみた。しかしそのうちへと注ぎ入り、映り込む光の総体と起源をわたしは知らない。そして知らずにいる限りきっとこの世界は依然底深い謎に充ち、生きるに値し続けるのだろう。“私”がたどり着くことなしにはこの時代、誰の目にも触れることのない未知の土地。目指すのは彼と彼女の心のなかにある、当人さえもいまだ気づかぬ秘境である。

―1524年佳月佳日 擱筆
 

コメント

nophoto
花〜華
2007年9月11日1:09

お久しぶりであります。。

「ヒト」は創めに“言葉”ありなのか“画(絵)”ありなのか??
“私”とはー自己の認識とは、“あなた”他者が在っての後

「異邦人」のムルソーは、他者と価値観や感情を共有できなない孤独、航海者は、見えるものは絶対的な海で他者が存在しない孤独。。ムルソーにとっての「救い」は「神」ではなく、他者との絆の構築。。ムルソーにとって不条理な社会に「それは太陽のせいだ」と言い、処刑(他者の影響)を受け入れ、「憎悪の叫びをあげて、迎えられる」と孤独を感じないよう求める。。航海者も、まだ見ぬフロンティア(あると信じ)での他との出会いを思い描き、自身の心で孤独に耐えたのではと。。お互い全く状況が違う孤独だが、似ているようにも。。
a life to say goodbye を読んでいてムルソーが浮かびました。。

世界に依然謎があるかぎり、生きるに値する〜同感です。。謎の数だけ、喜びも生まれると。。

goodbye
goodbye
2007年9月14日0:23

おお、異邦人>w<

記事中の“私”と神のくだりは実を言うと、ハタチ前後の数ヶ月ほど内面的にかなり閉じこもって過ごした時期があって、ほぼ丸ごとその頃に書き貯めたノートからの引用だったりします。当時は精一杯頭をフル回転させてひねり出していたはずだけど、いま見るとこれだけじゃ肉のない骨組みでしかないなぁとも思います。

言われてみると確かにその頃って自分のなかでカミュとかカフカの作品世界に一番近いところにいた時期かもしれませんw

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