モラル海域、奴隷の閾
2007年11月27日 常在戦場 コメント (10)
史実上の大航海時代における海上交易を考えるうえで欠かせない存在であるにも関わらず、‘大航海時代online’には登場せず、おそらく今後も追加実装されることはないだろう交易品が一つあります。今回はそこを起点に書きはじめてみようと思います。
その交易品とはそう、‘奴隷’です。
▼奴隷とゲーム
なぜこのゲームでは奴隷の売買が存在しないのか、という問いかけに対してはもしかしたら大半のひとが馬鹿らしいと感じるかもしれません。「そんなもの、常識的に考えて登場させるわけがない」とか、「モラルとして奴隷を扱わないのは当然」というような感覚がそこにはあります。ごく普通の感覚だと思います。
ただ少し考えてみると、ここで判断の根拠とされる‘常識’や‘モラル’の在りかたは必ずしも自明ではないことが分かります。なぜならたとえばこのゲームにおける白兵戦では船員同士による殺傷が起きますし、大航海時代における冒険つまり奥地探索は多くの場合その土地土地からの資源収奪を前提として支援されていたわけで、殺人行為や組織的な強奪行為の再現を許容する常識やモラルが奴隷売買のみ禁じるというのはやはり筋の通った話ではありません。
しかし人身売買は悪しき時代の遺産として現在ではタブー視されているのに対し、殺人行為や強奪行為は犯罪ではあり得てもタブーとされる因習ではなく、今日にあっても大義名分さえ通れば罪に問われることすらないので、この違いが恐らく商品としての奴隷のみがゲームの構成要素として忌避された理由に通じていそうです。国家による戦争と多国籍企業による資源搾取を現に許容している社会がそれらを再現する遊びを禁じきれるはずもありません。
このため‘大航海時代online’を長く続けているプレイヤーのなかには、あたかも奴隷の運搬なしでも大航海時代の交易は成立していたかのような感覚を持つひとが出てきそうですが、よく知られているように実際にはこの時代の海上交易を構造的に下支えしていたのは奴隷売買そのものでした。タバコやテキーラ、カカオやサイザル麻などゲームでも登場するカリブ中南米の名産品群はこのエリアでのプランテーション経営によるものですが、それらは全てアフリカ西岸からの奴隷の搬入がなければ維持発展できたはずもなく、また地中海域においてもイスラム勢力により白人奴隷の使役が行われていたことは、イタリア南部出身で奴隷あがりの海将ウルグ・アリの活躍などを通じて‘大航海時代online’のプレイヤーにも広く知られているところでしょう。そもそも‘slave(奴隷)’の語の成立にはスラヴ人奴隷を扱ったヴェネツィアやジェノヴァ商人による黒海交易が寄与しています。新古典主義の画家アングルの≪オダリスク≫[1814]に見られるように、彼らの生き様にはある種の憧憬すら込められていたようです。
La grande odalisque: http://cgfa.sunsite.dk/ingres/ingres8.jpg
常識やモラルを安易に振りまわして他人を縛ろうとする物言いを憎むタチなのでわたしはこうしたことも考えます。しかしその皮肉屋の刃を自身に向けるなら、奴隷交易を戦争や資源収奪と無前提に比較してしまうわたしの思考軸もまた常識なりモラルなりに基づいていることに気づかされます。そこでこれらに共通する要素をあらためて考えてみると、そこには他者の否定という論理がどうやら通底していそうです。
▼他者否定というモラル
奴隷、戦争、搾取。いずれも問題の核にあるのは、集団の暴力という形で他者否定を容認する社会システムそのものの姿なんですよね。ひとまとまりの消耗品として‘この船で最大300人運べる’、一度の白兵戦で‘50人削れる’、その農園の経営には‘奴隷1000人が必要’というというように、意識のうえでも人命が定量化され数値として処理されてしまう。船乗りにしても奴隷にしても一人ひとりがそれぞれに異なる生を歩み、それぞれに幼少時の記憶や傷や希望を抱えた存在であることがたやすく見過ごされてしまう。これほどおぞましいことはちょっと他にないようにも思えます。
しかしながらわたしたちは、それらをモデルとしたコンピューターゲームを嬉々としてプレイすることができています。そういう都合の良い想像力の持ち主でいられることはある意味とても凄いことなんじゃないかと感心もするわけですが、一方でそうした偏向の特異さが人間の特徴なのだということは重々肝に銘じておくべきだろうとも思います。‘常識とは18歳までに身につけた偏見の集大成である’という言葉があります。ことの善し悪しとはまったく別の話として、ひと口に奴隷といっても属す社会や主人次第では、むしろ奴隷であることによってはじめて身の安全や精神の自由を獲得した例も少なからずあったはずなんですよね。
“Theocracy”というゲームがあります。マヤ・アステカ文明を材にとった歴史シミュレーションゲームなのですが、この作品の途方もないところは捕まえた敵部族の民を奴隷化し労働力として使役できるほかに、神殿での儀式の生贄として捧げることで戦時の国力が増すシステムになっていたことなんですね。平時に畑や工房などで働かせていた彼らを怒涛のごとく生贄に捧げまくることで、神の恩恵を受けた兵士ユニットの戦闘力がどんどん上がっていく仕組みです。プレイしたのはもう5、6年は前のことで神事や歴史関連の英単語に苦戦しながらやっていたのですが、その経験が数年間の忘却をへて唐突に今この記事を書こうと考える素地の一つにもなっているようです。光栄の“信長・三国志シリーズ”やマイクロソフトの“エイジ・オブ・エンパイア”その他の海外物の文明系リアルタイムストラテジー等に比べても遜色のない出来映えなのですが、扱う時代がマニアックなうえにこの奴隷システムでは日本語版が製作される見込みは薄そうですね。(笑) もし日本人でこのゲームをしていたひとが他にいたら、いま‘大航海時代online’のプレイヤーである可能性はとても高いと思うのですが、いかがでしょうか。いらしたらぜひお知らせを。
ちなみに時代を進めていくと大陸の東岸からイスパニアの侵攻を受けるのですが、これがもう少人数のユニットなのに空恐ろしい殲滅力を発揮します。対等な生き物ではなく黒い皮膚に身を堅め暗いオーラを発して炎の魔術を使う悪魔として描かれているのが印象的でした。(それぞれにコンキスタドールの甲冑、ペスト、火器を暗示していたのだと今になって思います) このゲームを作っているのがUbi Softというヨーロッパの大手ゲーム制作会社であることを考え併せると、この点が商品のモラルを巡るリスクからこのゲームを回避させる最大のポイントだったのかもしれません。
しばらく前にプレイステーション3用の銃撃戦ゲームを巡って、マンチェスター大聖堂をゲーム内での舞台に使われた教会側が販売元のソニーに猛抗議したという報道がありました。いかにリアリスティックでも架空の世界という大前提があるゲームと現実社会におけるモラルとの軋轢を考える好事例となりましたが、これ、‘大航海時代online’にとって実はまったくの対岸の火事とは言えないんですよね。このゲームで初めてイスラムの港を訪れたおり、女性キャラがそのままモスクの内陣に入れてしまったことにはわたしもかなりの違和感を覚えたものですが、ゲーム化するためにデフォルメもしくは簡略化される細部が、異なる文化的背景をもつひとにとっては侮辱にも映りうるということは、この種のゲームにとっては宿命的に付きまとう難しいハードルなのかもしれません。
当の銃撃戦ゲームを巡ってはブレア首相が国会の答弁で軽く触れたり、教会側がソニーにお布施を要求しだしたりとちょっと面白い展開を見せたようです。相手の弱点を突いて献金を要求するなんて、どこかのヤクザか商会長みたいという気もしますけど。(笑)
▼画像とおまけ
画像はフランスの画家ギュスターヴ・ブーランジェの≪奴隷市場≫[1888]。
光栄の‘大航海時代シリーズ’では過去にも交易品としての奴隷が扱われたケースはなかったのかというと、どうやらそうでもないようです。以前にも紹介したハミルカル・バルカさんのブログでその事実を教えていただいたので、記事URLを以下に。リンク先コメント欄をご参照あれ。
DOLルーツ探究 その1: http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-465.html
なんとなく今回のような感じで、更新100回到達記念に新しい記事シリーズを始めてみるかもしれません。次回の予定テーマは、‘アヘン’または‘戦争’。記事カテゴリーの名前もまだ決めてないんですけどね。(笑)
その交易品とはそう、‘奴隷’です。
▼奴隷とゲーム
なぜこのゲームでは奴隷の売買が存在しないのか、という問いかけに対してはもしかしたら大半のひとが馬鹿らしいと感じるかもしれません。「そんなもの、常識的に考えて登場させるわけがない」とか、「モラルとして奴隷を扱わないのは当然」というような感覚がそこにはあります。ごく普通の感覚だと思います。
ただ少し考えてみると、ここで判断の根拠とされる‘常識’や‘モラル’の在りかたは必ずしも自明ではないことが分かります。なぜならたとえばこのゲームにおける白兵戦では船員同士による殺傷が起きますし、大航海時代における冒険つまり奥地探索は多くの場合その土地土地からの資源収奪を前提として支援されていたわけで、殺人行為や組織的な強奪行為の再現を許容する常識やモラルが奴隷売買のみ禁じるというのはやはり筋の通った話ではありません。
しかし人身売買は悪しき時代の遺産として現在ではタブー視されているのに対し、殺人行為や強奪行為は犯罪ではあり得てもタブーとされる因習ではなく、今日にあっても大義名分さえ通れば罪に問われることすらないので、この違いが恐らく商品としての奴隷のみがゲームの構成要素として忌避された理由に通じていそうです。国家による戦争と多国籍企業による資源搾取を現に許容している社会がそれらを再現する遊びを禁じきれるはずもありません。
このため‘大航海時代online’を長く続けているプレイヤーのなかには、あたかも奴隷の運搬なしでも大航海時代の交易は成立していたかのような感覚を持つひとが出てきそうですが、よく知られているように実際にはこの時代の海上交易を構造的に下支えしていたのは奴隷売買そのものでした。タバコやテキーラ、カカオやサイザル麻などゲームでも登場するカリブ中南米の名産品群はこのエリアでのプランテーション経営によるものですが、それらは全てアフリカ西岸からの奴隷の搬入がなければ維持発展できたはずもなく、また地中海域においてもイスラム勢力により白人奴隷の使役が行われていたことは、イタリア南部出身で奴隷あがりの海将ウルグ・アリの活躍などを通じて‘大航海時代online’のプレイヤーにも広く知られているところでしょう。そもそも‘slave(奴隷)’の語の成立にはスラヴ人奴隷を扱ったヴェネツィアやジェノヴァ商人による黒海交易が寄与しています。新古典主義の画家アングルの≪オダリスク≫[1814]に見られるように、彼らの生き様にはある種の憧憬すら込められていたようです。
La grande odalisque: http://cgfa.sunsite.dk/ingres/ingres8.jpg
常識やモラルを安易に振りまわして他人を縛ろうとする物言いを憎むタチなのでわたしはこうしたことも考えます。しかしその皮肉屋の刃を自身に向けるなら、奴隷交易を戦争や資源収奪と無前提に比較してしまうわたしの思考軸もまた常識なりモラルなりに基づいていることに気づかされます。そこでこれらに共通する要素をあらためて考えてみると、そこには他者の否定という論理がどうやら通底していそうです。
▼他者否定というモラル
奴隷、戦争、搾取。いずれも問題の核にあるのは、集団の暴力という形で他者否定を容認する社会システムそのものの姿なんですよね。ひとまとまりの消耗品として‘この船で最大300人運べる’、一度の白兵戦で‘50人削れる’、その農園の経営には‘奴隷1000人が必要’というというように、意識のうえでも人命が定量化され数値として処理されてしまう。船乗りにしても奴隷にしても一人ひとりがそれぞれに異なる生を歩み、それぞれに幼少時の記憶や傷や希望を抱えた存在であることがたやすく見過ごされてしまう。これほどおぞましいことはちょっと他にないようにも思えます。
しかしながらわたしたちは、それらをモデルとしたコンピューターゲームを嬉々としてプレイすることができています。そういう都合の良い想像力の持ち主でいられることはある意味とても凄いことなんじゃないかと感心もするわけですが、一方でそうした偏向の特異さが人間の特徴なのだということは重々肝に銘じておくべきだろうとも思います。‘常識とは18歳までに身につけた偏見の集大成である’という言葉があります。ことの善し悪しとはまったく別の話として、ひと口に奴隷といっても属す社会や主人次第では、むしろ奴隷であることによってはじめて身の安全や精神の自由を獲得した例も少なからずあったはずなんですよね。
“Theocracy”というゲームがあります。マヤ・アステカ文明を材にとった歴史シミュレーションゲームなのですが、この作品の途方もないところは捕まえた敵部族の民を奴隷化し労働力として使役できるほかに、神殿での儀式の生贄として捧げることで戦時の国力が増すシステムになっていたことなんですね。平時に畑や工房などで働かせていた彼らを怒涛のごとく生贄に捧げまくることで、神の恩恵を受けた兵士ユニットの戦闘力がどんどん上がっていく仕組みです。プレイしたのはもう5、6年は前のことで神事や歴史関連の英単語に苦戦しながらやっていたのですが、その経験が数年間の忘却をへて唐突に今この記事を書こうと考える素地の一つにもなっているようです。光栄の“信長・三国志シリーズ”やマイクロソフトの“エイジ・オブ・エンパイア”その他の海外物の文明系リアルタイムストラテジー等に比べても遜色のない出来映えなのですが、扱う時代がマニアックなうえにこの奴隷システムでは日本語版が製作される見込みは薄そうですね。(笑) もし日本人でこのゲームをしていたひとが他にいたら、いま‘大航海時代online’のプレイヤーである可能性はとても高いと思うのですが、いかがでしょうか。いらしたらぜひお知らせを。
ちなみに時代を進めていくと大陸の東岸からイスパニアの侵攻を受けるのですが、これがもう少人数のユニットなのに空恐ろしい殲滅力を発揮します。対等な生き物ではなく黒い皮膚に身を堅め暗いオーラを発して炎の魔術を使う悪魔として描かれているのが印象的でした。(それぞれにコンキスタドールの甲冑、ペスト、火器を暗示していたのだと今になって思います) このゲームを作っているのがUbi Softというヨーロッパの大手ゲーム制作会社であることを考え併せると、この点が商品のモラルを巡るリスクからこのゲームを回避させる最大のポイントだったのかもしれません。
しばらく前にプレイステーション3用の銃撃戦ゲームを巡って、マンチェスター大聖堂をゲーム内での舞台に使われた教会側が販売元のソニーに猛抗議したという報道がありました。いかにリアリスティックでも架空の世界という大前提があるゲームと現実社会におけるモラルとの軋轢を考える好事例となりましたが、これ、‘大航海時代online’にとって実はまったくの対岸の火事とは言えないんですよね。このゲームで初めてイスラムの港を訪れたおり、女性キャラがそのままモスクの内陣に入れてしまったことにはわたしもかなりの違和感を覚えたものですが、ゲーム化するためにデフォルメもしくは簡略化される細部が、異なる文化的背景をもつひとにとっては侮辱にも映りうるということは、この種のゲームにとっては宿命的に付きまとう難しいハードルなのかもしれません。
当の銃撃戦ゲームを巡ってはブレア首相が国会の答弁で軽く触れたり、教会側がソニーにお布施を要求しだしたりとちょっと面白い展開を見せたようです。相手の弱点を突いて献金を要求するなんて、どこかのヤクザか商会長みたいという気もしますけど。(笑)
▼画像とおまけ
画像はフランスの画家ギュスターヴ・ブーランジェの≪奴隷市場≫[1888]。
光栄の‘大航海時代シリーズ’では過去にも交易品としての奴隷が扱われたケースはなかったのかというと、どうやらそうでもないようです。以前にも紹介したハミルカル・バルカさんのブログでその事実を教えていただいたので、記事URLを以下に。リンク先コメント欄をご参照あれ。
DOLルーツ探究 その1: http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-465.html
なんとなく今回のような感じで、更新100回到達記念に新しい記事シリーズを始めてみるかもしれません。次回の予定テーマは、‘アヘン’または‘戦争’。記事カテゴリーの名前もまだ決めてないんですけどね。(笑)
コメント
3の積荷はオンライン版にない容積と重量の概念がありました。船には搭載容積・重量が設定されており、軽いものでもかさばる物、小さくても重いものはたくさん積めない仕組みでした。今思うときわめてリアルです。奴隷はかさばらず、重からず、(単価が)安からずで非常に扱いやすかった。
さらにいやらしいほどリアルだったのは、交易所での購入量なんですが、奴隷ってたくさん買えたんですよね。在庫量が金3、象牙10、奴隷50てな感じ。カテゴリ書のない3ではかなり使えました。
ただ奴隷が存在するのは初期ロット版だけですぐに修正が入りました。たぶんどっかから抗議があったんでしょうね。
当時の財政難から売却してしまったのは非常に残念です。
オダリスクの解釈はたくさんできてしまうと思いますが、トルコの後宮に対する憧憬というのは論を待ちませんね。私はアングルにかぎらず「オダリスク」の絵を見るとき、そこに「女奴隷」という意識がおこったことは一度もないです。
奴隷貿易はつい最近まで…20世紀までアフリカ内部では厳然と行われていました(スーダン国内など)が、私たちのなかで奴隷貿易といえば、やはりアフリカ西岸で人狩りされて船に詰め込まれた多数の「黒人奴隷」をさすことでしょう。
奴隷と言うこともそうですが、「黒人」ということが内在しているのも間違いないコトじゃないかなって思ったりします。わざわざ「黒人」奴隷と断らなくても奴隷といえば十中八九黒人を思い浮かべますでしょう。
卑近な例ですけれど、「ダッコちゃん」「ちび黒サンボ」などありましたよね。黒人という人々への関心というか考え方がどんどん変わって、いまではクレヨンの「肌色」も別の言葉に置き換わっているとか聴きますし、なんだか放送禁止用語みたいにおかしな「平等感」が練り込まれていっていることも否めないような気がいたします。
人道的、モラルって何なのか。いまの世の中のモラルを考えると「臭い物にはふたをする」とか「見て見ぬふりをする」「なかったことにして考えるのをやめる」とかいったように根本的に向き合うことをしていないのでは、と思わざるを得ません。
あんまりちなみませんが、宮崎駿氏のまんが作品『シュナの旅』や『風の谷のナウシカ』などは戦争に限らず奴隷の交易、市場での売買が当然のように描かれていました。
特に前者ではヒロインが人身売買の商品とされていましたし、カナリショックだったですね。
なるほど。物理的にみれば人間の身体の質量って家畜と同じですものね、積み荷として重からずかさばらない部類に入るというのは納得です。アフリカ西岸を起点とする奴隷交易路が確立したのちは、捕虜にした敵対する部族を流していたアフリカの土着民が売り手の主体だったといいますから、金や象牙にくらべても獲得コストが低かったというのもうなずける話です。しかし妙にリアリスティックな設定だったんですねぇw ご教示感謝でした^^
奴隷以前にキリスト教的世界観すら出ないゲームですから…
宗教色の全くない大航海時代、ふつうありえませんよね…
オフラインも同様ですが宗教色0で独自の正義路線でやっている様が何と意図的な事かわかりますよね。
ドラゴンボールのMrサタンも海外ではキリスト教に配慮してヘラクレスという名だそうです、これと似たようなもんですね。
オダリスクの解釈についてはその通りですね。スルタンの所有物として購入される経緯は性的奴隷そのものですが、それ除けば後継者を生みうる‘王の側室’として高い権勢を誇る例も多かったようですし、「奴隷」の語が今日引きずっているニュアンスからは少し外れた存在とも言えそうですね。
ただ「奴隷」と聞いて直接的に「アフリカ西岸ルーツの黒人奴隷」を想起するというのも、個人的には時代と地域を区切った特殊な兆候で、ダッコちゃん騒動などがあった20世紀後半の日本においては確実にそうだったけれども、21世紀現在においてもそうかというと今後は変わっていくんじゃないかとも思います。
少し堅苦しい話になりますが、いわゆるアフリカンアメリカンだけが‘奴隷’像としてクローズアップされて意識に上ること自体が欧米中心的な近代主義史観を基底にした戦後教育の賜物(こういう言葉遣いあまり好きじゃないんですけどね^^;)とも言えるわけで、これからは奴隷の語のもたらすイメージも徐々に黒人奴隷直結型からギリシア・ローマの奴隷や東洋の奴婢などとも比較的対等に‘被所有された使役人’を意味する姿へと変わっていくんじゃないかと。ここには黒人奴隷の現実が歴史になりつつあるという現状もあるかもですが。(まだなりきってはいないのもまた確かですけど)
たとえば政治家が口にする「人道主義」や評論家が発する「モラル」の語が何かのエクスキューズにしかならないということはあると思います。理屈では御しきれないことを言葉に込めて顔の見えない不特定多数を相手に発するとき、それが何かしらの意図に基づいている以上は必然的にそうならざるをえないとも。
『シュナの旅』、いいですよね。小学生のときたまたま本屋で見つけて引き込まれました。ナウシカほどストーリーが固まってないぶん、幼心に訴えかけてくるものが茫漠として深かった気がします。
あとマリィナさんのブログ、実はかなり前からお気に入りに登録してたりします。星と天体に関する記事シリーズのファンですw 書き込みありがとでした^^
ああ、それは少し違うと思います。
このゲームに限らず著作や映画等も含めて、歴史や事件をモデルとする表現物は制作者の意図に併せた要素以外を排除してはじめて成立するものですが、その一方でそこに何を求め何を評価するかは受容者(ゲームで言えばプレイヤー)の判断に全面的に任されますよね。ドキュメンタリーやニュース番組、言葉の辞書においてすら、報道や辞書の説明を全面的に正しい事実だと受け取るのはそもそも受け手の姿勢として誤りなわけです。
逆を言えば創作物に過ぎない以上、そこにどれだけの落ち度があれDOLが大航海時代をモデルとするゲームである点にはやはり揺るぎがないように思えます。ですから「剣と魔法のファンタジー作業」のゲームは他にも多々あるにもかかわらず、それらには何の興味も沸かないというDOLプレイヤーに対してきゅんきゅんさんの主張が何かを訴えるためには説明が足りないかも。
たとえばきゅんきゅんさんのおっしゃる「キリスト教的世界観すら出ない」の箇所がそうですが、資本主義的価値観や近代的世界観はいずれもヨーロッパ近世のプロテスタンティズムとカトリシズムとの葛藤のなかで育まれてきたものですから、少なくともガレオン船による大西洋横断、遠隔地への植民、異国船との戦闘といった大航海時代の海事における諸要素はすべてキリスト教的世界観に彩られ支配されていますよね? DOLでプレイヤーが選べる6ヵ国間の対立やオスマン帝国の位置づけなど、設定そのものに宗教色はわりとよく出ているように思うのですが、いかがでしょうか。
そうではなくごく表面的に宗教的イメージの乏しさのことを「宗教色0」と表現されているなら、冒険の発見物で異様なまでにイコン・祭壇画・聖像が多い点が即座に疑問となってきます。何を‘美術’作品とするかは120%現代的価値観に基づくので、もしDOLの制作陣がそうした面で何らかの意図または必要に迫られて宗教色の排除を意図するのであれば、まずプレイヤーの宗教観自体に抗う作業が必要になるはずだし、それをやらなければこの筋で言う「宗教色0」には近づけないと思います。
ともあれ大航海時代を生きた人々のなかでも、とりわけDOLにも登場するような傑出した人物の多くは芽生えつつあった個人主義的思考に対してむしろ現代の日本人以上に自覚的先鋭的であったことが遺された著作物や芸術作品から読み取れます。ミケランジェロやルターならずとも、プレイヤーキャラクターがお仕着せの宗教観などあらかじめなきものとして構築された世界を動くことにのみ致命的な違和感を覚えることは、わたしの場合まったくなかったりします。いかがでしょう?
Mrサタンがヘラクレスとなるように多々宗教国への配慮の元、独自の正義感に置き換えられてゲームが作られているように思えますが。
最も言いたい事は聖書から来る『神の名の下』による正義の表現がDOLにおいて一切無い事です。本来なら航海者たるプレイヤーに大してこの大儀があって良いはずです。それどころか無いほうがおかしいです。ですから宗教色0と言っておるわけです。
日本史でおなじみのルイスフロイス日本史、日本人からしたらキリスト教的偏見のオンパレードですが実際極東実装されてそのような対日本国キリスト教的正義が表現されるでしょうか。せいぜい九鬼海賊は悪いやつだから退治しようみたいなクエストが出るのがオチじゃないでしょうか。
奴隷にしてもリアリティを求めるのであれば『布教クエ』や『神の名の下の正義』があってもいいはずですよ。
つまるところわたくしはgoodboyさんの言われるでそこに何を求め何を評価するかは受容者(ゲームで言えばプレイヤー)の判断に全面的に任される。というのであれば全くのオリジナルゲーであると判断しておるわけです。
話の中にローマ法王すら出ない大航海時代って何なんでしょう。どちらかと言えば大航海時代というより剣と魔法のファンタジーゲームに近いような気がしますが。
うっすらと期待していた以上に実直でかつ直球のレスをいただいた気がします。ありがとうございました。
実を言えばわたしも前回のコメントでは、きゅんきゅんさんの書き込みとのあいだには着眼点のズレしか浮き彫りにできないだろうなと思いながら打っていました。ただこのコメント欄のように数分で読めるだけの文章のみを許容する場で、そのズレを説得的に回避する術や気力がわたしにはないので、きのうの書き込みでは溝の外周に杭を打つような物言いに留めておきました。
端的に言ってしまえば、わたしにとってはノアの方舟やマリアの処女懐妊がそうであるように、キャラベル船による未開の航路開拓もまたキリスト教が示した足跡そのものだろうという認識があるため、光栄が「神の名の下の正義」を明示的に持ち出すことがなかったり、あるいはきゅんきゅんさんのおっしゃる「独自の正義」に置き換えたりしていたとしても、まったく枝葉の問題としか感じられないわけです。
史実のケースで言えば、戦役によってはフランス船がイギリス船に対して砲撃を加えることそれ自体がじゅうぶんに宗教的でありえた以上、戦力向上を目的とした演習において味方船に向けて空砲を撃つことすら十全と宗教色を帯びていたわけです。しかしながら当然の話として、その船の水夫たちが敬虔な信仰心の持ち主である必要がそこにはまるでありません。技術論にのみ執着した砲術手のほうがずっと優秀だったことでしょう。
DOLの場合も同様に、敵対国の軍船と戦うということのなかにロールプレイング的に宗教的倫理感を込めるひとがいれば、純粋に「剣と魔法のファンタジーゲーム」として遊ぶひともいるでしょう。それはどちらが正しくどちらが間違いという話ではまったくなく、きゅんきゅんさんにも引用していただいた通り、何を求め何を評価するかは受容者次第なのだと思います。ですからきのうのわたしのコメント欄での発言の要旨は、「剣と魔法のファンタジーゲーム」としてのみ遊んでいるかたが「大航海時代をモデルとしたゲーム」としてDOLを楽しんでいるひとを否定するためには、きのうのきゅんきゅんさんのコメントは説明不足に思う、というところにあります。
長くなったのでいったん切ります。久々の長文コメントモードですw
また今朝いただいたコメントに対しては、異教徒に対する正義や布教行為の有無だけがこの時代のキリスト教の全体像において重要なファクターだとはまったく思えないため、それのみを以って「キリスト宗教色」の濃淡を測るご主張にはどうにも賛同しかねるという感想を持ちました。それのみが重視され前回コメントで言及した海事面や美術分野でのキリスト教的アイコンの偏在が看過される理由が分かりません。ここでもう1つ例を加えるなら、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においてマックス・ヴェーバーは欧米中心型の近代社会における生活倫理それ自体がそもそも広義のキリスト教ひいては宗教の起源そのものに確固とした連続性をもつことを証しましたが、この場合の倫理もしくは宗教的なるものはあくまで近代的自我の内面においてのみ生起躍動するものですから、DOLどころか現実の大航海時代においてすらそれらが直接的に目に見えるもの、耳に聞こえる言葉として顕現する性質のものでありえたはずもありません。
ゆえに俄然、このゲームに宗教性を巡って致命的な欠陥があったとしても、「ローマ法王」や「布教クエ」を登場させれば改善されるとは到底思えないわけです。逆にこうしたことがゲーム内でわざわざ認識可能なかたちで表現されずとも、わたしの場合そこに自ずと宗教性を読みとらざるをえないのですが、先にも述べたようにこのことをこのコメント欄でこれ以上わかりやすく語る術をわたしは持ちません。
なので以下きゅんきゅんさんのドラゴンボールの譬えにならって譬えばなしに代えさせていただけば、わたしは海外渡航時の入国シートにはBuddhistと明記します。仏教は宗教ではなく思想であるというひともいますが、わたしはわたしなりの拙い経験から仏教はやはり歴然とした宗教として今も生きており、そのなかに埋没している日常のわたしは念仏もあげず親戚の法事にも出かけず意識することも皆無だけれどやはり仏教徒なんだろう、と感じるに到ったからです。
日本の一般家庭では食事前に「いただきます」と軽く手を合わせる光景がごく普通に見られますよね。そしてそのことには宗教色などかけらもない、昭和の家族制度のなかで形骸化した慣習の残滓でしかなく、仏陀の御心がどのへんにあるというのだ、と主張するひとがいたとして、わたしはそのひとの考え方をとりたてて否定もしないけれど、賛同する気もまったく起きない、これと似たようなもんなのです。