Job Description 18: 天文学者 【アレクサンドリア】
2011年3月28日 就職・転職
震災当日観るはずだった映画“アレクサンドリア”、ようやく観られたので久々に映画の感想書いてみます。
映画の舞台はローマ帝国末期、かのアレクサンドリア図書館や世界の七不思議の一つ、ファロス島の大灯台が現役だった時代のメトロポリス、アレクサンドリアです。主人公は実在した哲学者のヒュパティアで、彼女は数学者・天文学者としても当代一の才能があったと推測されています。“推測”と書いたのは、彼女の著作は現在すべて失われてしまっており、彼女に宛てられた手紙や周辺の学者・政治家たちの評価に拠るしか人となりを知る術がないためです。
この知的に研ぎ澄まされていてかつミステリアスな人物像を、主演のレイチェル・ワイズは見事に演じ切っていました。この女優の笑顔には、見る者の視線を引き込んで表情の内に束の間滞留させるような深みがあり、何かしら精神的に傷を負った役柄を演じさせると抜群に光るのですが、今回の作品では男中心の政治学問の現場や、迫り来る宗教的狂騒との緊張関係が全編にわたって続くため、まさにレイチェル・ワイズの長所ダダ漏れ作品になっていました。
当初この映画の存在を知ったとき、これは観ようと即決した最大の理由は、キリスト教徒によるアレクサンドリア図書館への襲撃が描かれていると伝えられていたからでした。これまで欧米の映画がキリスト教徒の集団を悪く描くときはたいてい、それでもキリスト教側にも一定の理を確保し、迫害する相手を文明の価値として露骨に下に置くような構図がありました。しかしこの時代随一のメトロポリスであったアレクサンドリアにおいて、果たしてそのような描き方がどれだけ可能なのか、そこに興味があったんですね。そして監督が“オープン・ユア・アイズ”や“海を飛ぶ夢”のアレハンドロ・アメナバールのスペイン映画、この2点だけでもうどんな失敗作だとしても入場料分の見応えは確信できました。
さて問題のキリスト教徒による破壊行為。生々しい暴力シーンそのものは抑えに抑えられていましたが、それだけに起きている出来事の凶暴性が深く響いてくるものがありました。図書館の門がいまにも暴徒たちに破られるという騒乱のさなかにあって、一つでも多くの書巻を持ち出したいけれど万巻の書に対して人手が足りなさすぎるなか、鋭い悲痛に身を裂かれながらも弟子たちに囲まれた自分が気丈に動かなくては救える書巻も救えなくなるという葛藤に苦しむレイチェル・ワイズの演技には、自分でも意外なほどに感情移入を誘われてしまいました。観客席で涙を滲ませる程度ならあるにしても、腰を落ち着けてそれを観ているのがつらいというほどの感情に襲われたのは稀有の体験でした。腕からこぼれ落ちてしまった書巻の一つ一つに、複数の賢者が一生を割いて見い出した叡智が詰まっている。それなのに、どうしても救えない。
ところでタイトルの“アレクサンドリア”、実はこれ日本限定の国内向けタイトルで、世界的には“Agora”として公開されているんですね。アゴラは古代ギリシアのポリスにおける広場や、そこで開かれる市民集会の意として日本でもよく知られていますね。古代ギリシアにルーツがあるだけあって、英語のほか多くのヨーロッパ系言語で同じ意味で用いられています。しかしこのタイトルの抱える含蓄はもう少し広く、スペイン語では名詞の“広場”のほか、動詞になるとagorarで“[迷信的に、主に災難を]予言する”、ポルトガル語では“現在”という意味を持っています。こう考えると、この作品の立ち位置がもう一段深まって見えてくる気がします。狂信的排他主義。理に沿わぬ暴動。無自覚の女性蔑視。通念に抗って己を貫く困難。主人公ヒュパティアの排斥を指示したアレクサンドリアの総司教キュリロスはその後、ローマ教会によって聖人に列せられています。考えさせられます。表出されているのはあくまで、“いま” なんですよね。その意味でも、かなりの名タイトル。
映画のなかでは、街の通りや広場のシーンから視点が上空へとあがり、ナイルや地中海を俯瞰したあと雲を抜け宇宙に浮かぶ地球の映像にまで引いていき、また元に戻るという視覚的往還が幾度か繰り返されます。このとき見せているアレクサンドリア周辺の地理や星座の配置は、精密な考証と計算を経て生み出されたCGによるもので現存しない姿です。それはそれで見応えのあるものだったし、観客の内面において人間の営みをミクロなものとして対象化させる効果を狙った監督の意図も巧く表現し切れていると思うのですが、ふとその地球大まで引いた映像のなかで地球が半回転して、日本列島の東北部をクローズアップしてゆくと、そこにあるはずのない1600年後の福島第一原発から伸びる白煙が映り込む。そんなシーンを連想せずにはいられませんでした。当分のあいだはそうやって、体験するあらゆるものの基底に震災の影が忍び入るような日々が続くのかもしれません。何年か、あるいはさらに。
"Agora" by Alejandro Amenabar / Rachel Weisz, Max Minghella, Oscar Isaac, Ashraf Barhom / Xavi Gimenez [cinematography] / Guy Hendrix Dyas [production design] / Dario Marianelli [music performer] / 127min / Spain / 2009
映画の舞台はローマ帝国末期、かのアレクサンドリア図書館や世界の七不思議の一つ、ファロス島の大灯台が現役だった時代のメトロポリス、アレクサンドリアです。主人公は実在した哲学者のヒュパティアで、彼女は数学者・天文学者としても当代一の才能があったと推測されています。“推測”と書いたのは、彼女の著作は現在すべて失われてしまっており、彼女に宛てられた手紙や周辺の学者・政治家たちの評価に拠るしか人となりを知る術がないためです。
この知的に研ぎ澄まされていてかつミステリアスな人物像を、主演のレイチェル・ワイズは見事に演じ切っていました。この女優の笑顔には、見る者の視線を引き込んで表情の内に束の間滞留させるような深みがあり、何かしら精神的に傷を負った役柄を演じさせると抜群に光るのですが、今回の作品では男中心の政治学問の現場や、迫り来る宗教的狂騒との緊張関係が全編にわたって続くため、まさにレイチェル・ワイズの長所ダダ漏れ作品になっていました。
当初この映画の存在を知ったとき、これは観ようと即決した最大の理由は、キリスト教徒によるアレクサンドリア図書館への襲撃が描かれていると伝えられていたからでした。これまで欧米の映画がキリスト教徒の集団を悪く描くときはたいてい、それでもキリスト教側にも一定の理を確保し、迫害する相手を文明の価値として露骨に下に置くような構図がありました。しかしこの時代随一のメトロポリスであったアレクサンドリアにおいて、果たしてそのような描き方がどれだけ可能なのか、そこに興味があったんですね。そして監督が“オープン・ユア・アイズ”や“海を飛ぶ夢”のアレハンドロ・アメナバールのスペイン映画、この2点だけでもうどんな失敗作だとしても入場料分の見応えは確信できました。
さて問題のキリスト教徒による破壊行為。生々しい暴力シーンそのものは抑えに抑えられていましたが、それだけに起きている出来事の凶暴性が深く響いてくるものがありました。図書館の門がいまにも暴徒たちに破られるという騒乱のさなかにあって、一つでも多くの書巻を持ち出したいけれど万巻の書に対して人手が足りなさすぎるなか、鋭い悲痛に身を裂かれながらも弟子たちに囲まれた自分が気丈に動かなくては救える書巻も救えなくなるという葛藤に苦しむレイチェル・ワイズの演技には、自分でも意外なほどに感情移入を誘われてしまいました。観客席で涙を滲ませる程度ならあるにしても、腰を落ち着けてそれを観ているのがつらいというほどの感情に襲われたのは稀有の体験でした。腕からこぼれ落ちてしまった書巻の一つ一つに、複数の賢者が一生を割いて見い出した叡智が詰まっている。それなのに、どうしても救えない。
ところでタイトルの“アレクサンドリア”、実はこれ日本限定の国内向けタイトルで、世界的には“Agora”として公開されているんですね。アゴラは古代ギリシアのポリスにおける広場や、そこで開かれる市民集会の意として日本でもよく知られていますね。古代ギリシアにルーツがあるだけあって、英語のほか多くのヨーロッパ系言語で同じ意味で用いられています。しかしこのタイトルの抱える含蓄はもう少し広く、スペイン語では名詞の“広場”のほか、動詞になるとagorarで“[迷信的に、主に災難を]予言する”、ポルトガル語では“現在”という意味を持っています。こう考えると、この作品の立ち位置がもう一段深まって見えてくる気がします。狂信的排他主義。理に沿わぬ暴動。無自覚の女性蔑視。通念に抗って己を貫く困難。主人公ヒュパティアの排斥を指示したアレクサンドリアの総司教キュリロスはその後、ローマ教会によって聖人に列せられています。考えさせられます。表出されているのはあくまで、“いま” なんですよね。その意味でも、かなりの名タイトル。
映画のなかでは、街の通りや広場のシーンから視点が上空へとあがり、ナイルや地中海を俯瞰したあと雲を抜け宇宙に浮かぶ地球の映像にまで引いていき、また元に戻るという視覚的往還が幾度か繰り返されます。このとき見せているアレクサンドリア周辺の地理や星座の配置は、精密な考証と計算を経て生み出されたCGによるもので現存しない姿です。それはそれで見応えのあるものだったし、観客の内面において人間の営みをミクロなものとして対象化させる効果を狙った監督の意図も巧く表現し切れていると思うのですが、ふとその地球大まで引いた映像のなかで地球が半回転して、日本列島の東北部をクローズアップしてゆくと、そこにあるはずのない1600年後の福島第一原発から伸びる白煙が映り込む。そんなシーンを連想せずにはいられませんでした。当分のあいだはそうやって、体験するあらゆるものの基底に震災の影が忍び入るような日々が続くのかもしれません。何年か、あるいはさらに。
"Agora" by Alejandro Amenabar / Rachel Weisz, Max Minghella, Oscar Isaac, Ashraf Barhom / Xavi Gimenez [cinematography] / Guy Hendrix Dyas [production design] / Dario Marianelli [music performer] / 127min / Spain / 2009
コメント