風の鳴る
2007年5月18日 海のなかの見えない航路 コメント (3)
マニラの水上集落はすこし独特な形になっていて、
出航所から伸びる通路を樹の幹として、
左右へ枝が分かれるように種々の施設への桟橋が伸びている。
小さな桟橋の一つを渡ると、史実でマニラを‘発見’した
ロペス・デ・レガスピと話せたりもする。
樹の幹に当たるその通路は全体が右方向へゆるやかに湾曲しているのだけれど、
奥へ奥へと進むとやがて内陸への門につき当たる。
その門の向こうへ行かないことにはたぶん、
本当の意味でこの島、ルソン島に‘上陸’したとはちょっと言えない。
なぜならここでは港湾施設そのものがすべて水上にあるからで、
きっと門の向こうにはこの島の自然や人々の暮らす光景が
より豊かに広がっているからだ。
けれどもいまのところ、
プレイヤーがその門をくぐることは‘まだ’できない。
‘大航海時代Online’にはこうした、まだ通れない門、まだ開かない扉、
まだ入れない通り等々が無数にあって、
たぶんその多くはこれからもずっと開くことがなく、
だからプレイヤーはみなその向こうに踏み入ることがないままやがて、
このゲーム内世界をあとにする日をそれぞれに迎えるのだろうとおもう。
けれどそれでもこうした門や扉がたくさんあることを、
わたしはひそかに歓迎していたりする。
港町をかこう柵や壁の向こう側へと分け入ることはできなくても、
そのこちら側から見渡すことができる向こうの世界には
その土地土地の家屋や草木、家畜や象や場合によってはシマウマなんかが
ちゃんと配置されていて、それらをぼんやり眺めることで、
そこには自分が歩ける町並みと地続きの空間が
門や扉を通じてもっと大きなスケールで広がっていることを
きちんと視点を動かしながら確認できる。予感できる。
このことの意味はおそらく、ただの見た目よりもずっと深い。
マニラの水上集落をつらぬく通路の一番奥、
内陸へと続く門の手前には、
プレイヤーがこの島の土を踏みしめることのできる
スペースがすこしだけあって、
この土地の色鮮やかな服を着たこどもがふたり立っている。
男の子と女の子がひとりずつ。
仲良し同士のともだちか、あるいは姉弟なのかもしれない。
遠く異国の地からやってきたわたしに向かい、男の子が尋ねてくる。
「ねえねえ、どこから来たの?」
すこし落ち着いた感じの女の子がぽつりとつぶやく。
「よく北の方から大きな船がくるの。
珍しいものをたくさん積んでるんだよ」
実際にこの港を出航して北へ向かうと、
いまは数日もしないうちに
‘世界の果て’へと行き着いてしまうのだけれど。
けれどもしかしたらそうした事実のあるなしよりずっと、
こうしたセリフを話すこどもたち、大人たちがいることが
このゲームにとってはとても
大切なことなんじゃないかとわたしはおもう。
世界の果てのさらにむこう、
大なる船をあやつる人々の物影あり。
自船に日誌をつける船乗りがもしいたら、
この日の項はそう書き付けられるにちがいない。
耳を澄ませる。
耳奥より、かつて見たことのない構造をもつ
巨大な船舶が群れをなして波を割り、
未知の帆綱をはためかせる音が聞こえてくる。
出航所から伸びる通路を樹の幹として、
左右へ枝が分かれるように種々の施設への桟橋が伸びている。
小さな桟橋の一つを渡ると、史実でマニラを‘発見’した
ロペス・デ・レガスピと話せたりもする。
樹の幹に当たるその通路は全体が右方向へゆるやかに湾曲しているのだけれど、
奥へ奥へと進むとやがて内陸への門につき当たる。
その門の向こうへ行かないことにはたぶん、
本当の意味でこの島、ルソン島に‘上陸’したとはちょっと言えない。
なぜならここでは港湾施設そのものがすべて水上にあるからで、
きっと門の向こうにはこの島の自然や人々の暮らす光景が
より豊かに広がっているからだ。
けれどもいまのところ、
プレイヤーがその門をくぐることは‘まだ’できない。
‘大航海時代Online’にはこうした、まだ通れない門、まだ開かない扉、
まだ入れない通り等々が無数にあって、
たぶんその多くはこれからもずっと開くことがなく、
だからプレイヤーはみなその向こうに踏み入ることがないままやがて、
このゲーム内世界をあとにする日をそれぞれに迎えるのだろうとおもう。
けれどそれでもこうした門や扉がたくさんあることを、
わたしはひそかに歓迎していたりする。
港町をかこう柵や壁の向こう側へと分け入ることはできなくても、
そのこちら側から見渡すことができる向こうの世界には
その土地土地の家屋や草木、家畜や象や場合によってはシマウマなんかが
ちゃんと配置されていて、それらをぼんやり眺めることで、
そこには自分が歩ける町並みと地続きの空間が
門や扉を通じてもっと大きなスケールで広がっていることを
きちんと視点を動かしながら確認できる。予感できる。
このことの意味はおそらく、ただの見た目よりもずっと深い。
マニラの水上集落をつらぬく通路の一番奥、
内陸へと続く門の手前には、
プレイヤーがこの島の土を踏みしめることのできる
スペースがすこしだけあって、
この土地の色鮮やかな服を着たこどもがふたり立っている。
男の子と女の子がひとりずつ。
仲良し同士のともだちか、あるいは姉弟なのかもしれない。
遠く異国の地からやってきたわたしに向かい、男の子が尋ねてくる。
「ねえねえ、どこから来たの?」
すこし落ち着いた感じの女の子がぽつりとつぶやく。
「よく北の方から大きな船がくるの。
珍しいものをたくさん積んでるんだよ」
実際にこの港を出航して北へ向かうと、
いまは数日もしないうちに
‘世界の果て’へと行き着いてしまうのだけれど。
けれどもしかしたらそうした事実のあるなしよりずっと、
こうしたセリフを話すこどもたち、大人たちがいることが
このゲームにとってはとても
大切なことなんじゃないかとわたしはおもう。
世界の果てのさらにむこう、
大なる船をあやつる人々の物影あり。
自船に日誌をつける船乗りがもしいたら、
この日の項はそう書き付けられるにちがいない。
耳を澄ませる。
耳奥より、かつて見たことのない構造をもつ
巨大な船舶が群れをなして波を割り、
未知の帆綱をはためかせる音が聞こえてくる。
オスロ大海戦の報告です。とうとう5週遅れに。
初日 : 37勝 3敗 4分け 勝利ポイント 71 戦功 87
中日 : 52勝 6敗 6分け 勝利ポイント 94 戦功 117
千秋楽 : 59勝 9敗 5分け 勝利ポイント 93 戦功 106
画像下半の戦績画面、初日SSを撮り忘れてしまったので個人戦功部分のみ2日目の数字が2つ並んでます。さすがに遅くなりすぎたので、継続記録の意味合いから短めに。
▼海戦総覧:
昨年7月以来となるイスパニア主導の大海戦、標的港はスカンディナヴィアの中枢オスロ。連盟は西+仏vs英+蘭、会戦海域は北海+ユトランド半島沖。この連盟とこの海域の組み合わせは昨今の大海戦における一定番となった観あり。ただ同海域での過去の大海戦と比較し際立ったのは、主戦場の明確な分立状態が起きたことでした。これまでこの組み合わせではもっぱらヘルデルーハンブルク間の陸沿いに対人戦闘が集中していたのですが、今回はコペンハーゲン沖がこれに加わりました。
形勢は終始イスパニア側数的優位にて推移、そのままイスパニア軍の勝利へ(勝率58%)。各時間帯別での勝利ポイントもつねにイスパニア側がイングランド側を上回りましたが、3日間全クラスを通し一方が他方を上回るというのは過去の大海戦全体を見渡しても稀なケースと言えそうです。前回の大海戦記事(「アジアの砲哮」3月23日)でも触れましたが、一年前までは常勝を誇っていたノトスイングランドが他の5ヶ国に比べて昨今明らかに元気をなくしているように見えてなりません。少し気になるところです。
▼艦隊総括:
今回の大海戦では新しい試みとして、10隻を4-3-3隻の3艦隊に分け、さらにうち1、2隻が旗艦への追従を切って単独で交戦もしくは援軍参加をしていくという戦術に挑戦。前々回記事(「片舷斉射」4月21日含コメント欄)に詳しく書きましたが、これは一定の成果を出せたように思います。おもに‘名工の大工道具’消費の問題から、現状の仕様では常用戦術とするには至らなそうですが。
また上記に述べた主戦場の分立状態、とりわけ3日目にはコペン沖への対人艦隊の集中が激しく、自艦隊は2日目にコペン沖へ出張って失敗したことからこのエリアを敬遠してしまったため、この日の戦功数を“相対的に”大きく下げる結果へとつながりました。2日目に自艦隊からMVPを出していたこともあり、あまり大きな失策を犯したという雰囲気はなかったけれど、戦場の選択がこれほどの差を生むのかと驚いたのも確かです。3日目コペン沖で戦った艦隊は、両陣営ともに軒並み150前後の戦功を挙げていた様子。
▼個人戦績:
初日 : 与撃沈/拿捕 13 決定打 3 被撃沈 6 与クリ 18 被クリ 8
中日 : 与撃沈/拿捕 17 決定打 5 被撃沈 2 与クリ 32 被クリ 4
千秋楽 : 与撃沈/拿捕 15 決定打 8 被撃沈 1 与クリ 25 被クリ 2
初日むやみに連沈する場面があり、2日目以降は下手に狙いを外して沈まないことに注意を払いました。結果としては被クリティカル数が自分でも意外なほどに減っていたほか、敵旗艦の撃沈を意味する決定打率の向上にもつながったようです。ただ今回は著しく艦隊構成を変えながら戦ったので、これ以上細かい数値の相対比較はあまり意味を持ちそうにありません。
新PC環境での初めての大海戦でもありました。段違いに戦いやすくなりはしたものの、一年半慣れ親しんだ旧PCでの癖をそこかしこで実感したりも。古い癖が抜けるにはしばらくかかりそうです。
▼画像とおまけ:
画像上半、一同壁に向かって反省会の図。以下おまけ。
にっぽんのガレオン船:
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/031.htm
船の科学館から朱印船のページを。こうして見ると船尾のせり上がり方はまさにDOLでもおなじみのガレオン船そのものですね。わたしに限らず縄文から始まる日本史の授業で‘朱印船’の語を刷り込まれたひとにとって、このつながりはけっこう新鮮に映るんじゃないでしょうか。ガレオンの船体構造に横桟の入った中国帆、なかなかです。
初日 : 37勝 3敗 4分け 勝利ポイント 71 戦功 87
中日 : 52勝 6敗 6分け 勝利ポイント 94 戦功 117
千秋楽 : 59勝 9敗 5分け 勝利ポイント 93 戦功 106
画像下半の戦績画面、初日SSを撮り忘れてしまったので個人戦功部分のみ2日目の数字が2つ並んでます。さすがに遅くなりすぎたので、継続記録の意味合いから短めに。
▼海戦総覧:
昨年7月以来となるイスパニア主導の大海戦、標的港はスカンディナヴィアの中枢オスロ。連盟は西+仏vs英+蘭、会戦海域は北海+ユトランド半島沖。この連盟とこの海域の組み合わせは昨今の大海戦における一定番となった観あり。ただ同海域での過去の大海戦と比較し際立ったのは、主戦場の明確な分立状態が起きたことでした。これまでこの組み合わせではもっぱらヘルデルーハンブルク間の陸沿いに対人戦闘が集中していたのですが、今回はコペンハーゲン沖がこれに加わりました。
形勢は終始イスパニア側数的優位にて推移、そのままイスパニア軍の勝利へ(勝率58%)。各時間帯別での勝利ポイントもつねにイスパニア側がイングランド側を上回りましたが、3日間全クラスを通し一方が他方を上回るというのは過去の大海戦全体を見渡しても稀なケースと言えそうです。前回の大海戦記事(「アジアの砲哮」3月23日)でも触れましたが、一年前までは常勝を誇っていたノトスイングランドが他の5ヶ国に比べて昨今明らかに元気をなくしているように見えてなりません。少し気になるところです。
▼艦隊総括:
今回の大海戦では新しい試みとして、10隻を4-3-3隻の3艦隊に分け、さらにうち1、2隻が旗艦への追従を切って単独で交戦もしくは援軍参加をしていくという戦術に挑戦。前々回記事(「片舷斉射」4月21日含コメント欄)に詳しく書きましたが、これは一定の成果を出せたように思います。おもに‘名工の大工道具’消費の問題から、現状の仕様では常用戦術とするには至らなそうですが。
また上記に述べた主戦場の分立状態、とりわけ3日目にはコペン沖への対人艦隊の集中が激しく、自艦隊は2日目にコペン沖へ出張って失敗したことからこのエリアを敬遠してしまったため、この日の戦功数を“相対的に”大きく下げる結果へとつながりました。2日目に自艦隊からMVPを出していたこともあり、あまり大きな失策を犯したという雰囲気はなかったけれど、戦場の選択がこれほどの差を生むのかと驚いたのも確かです。3日目コペン沖で戦った艦隊は、両陣営ともに軒並み150前後の戦功を挙げていた様子。
▼個人戦績:
初日 : 与撃沈/拿捕 13 決定打 3 被撃沈 6 与クリ 18 被クリ 8
中日 : 与撃沈/拿捕 17 決定打 5 被撃沈 2 与クリ 32 被クリ 4
千秋楽 : 与撃沈/拿捕 15 決定打 8 被撃沈 1 与クリ 25 被クリ 2
初日むやみに連沈する場面があり、2日目以降は下手に狙いを外して沈まないことに注意を払いました。結果としては被クリティカル数が自分でも意外なほどに減っていたほか、敵旗艦の撃沈を意味する決定打率の向上にもつながったようです。ただ今回は著しく艦隊構成を変えながら戦ったので、これ以上細かい数値の相対比較はあまり意味を持ちそうにありません。
新PC環境での初めての大海戦でもありました。段違いに戦いやすくなりはしたものの、一年半慣れ親しんだ旧PCでの癖をそこかしこで実感したりも。古い癖が抜けるにはしばらくかかりそうです。
▼画像とおまけ:
画像上半、一同壁に向かって反省会の図。以下おまけ。
にっぽんのガレオン船:
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/031.htm
船の科学館から朱印船のページを。こうして見ると船尾のせり上がり方はまさにDOLでもおなじみのガレオン船そのものですね。わたしに限らず縄文から始まる日本史の授業で‘朱印船’の語を刷り込まれたひとにとって、このつながりはけっこう新鮮に映るんじゃないでしょうか。ガレオンの船体構造に横桟の入った中国帆、なかなかです。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』、きのうから第3作が日本公開に。すっかり海賊映画の代名詞的存在となりましたね。第1作について書いた過去記事(「Job Description 2:〜」昨年7月23日記事)では作品を巡る製作背景に焦点を当てたので、今回はできるだけ作品内容にシフトしてみます。
とはいえこれから観ようというかたも多いでしょうから、ここではストーリーを追うことはせず、代わりにキーワードを3つ。「世界の果て」と「父と子」、「船」。では参ります。
◆世界の果て
サブタイトルにもある通り、この作品では「ワールドエンド(世界の果て)」が大きな意味をもっています。原題では"At World’s End"と’at’が付いているように、ストーリー進行そのものが「世界の果て」を主舞台として展開するのですね。しばらく前に当ブログで紹介した予告篇動画にも出てくるので記憶にあるかたもいるかもしれませんが、視覚化されたこの「世界の果て」はなかなかに凄かった。とにかく本作は視覚エフェクトの点で目を見張る場面が前作よりも増えていました。
以前にも触れましたが、この第3作は昨年公開された第2作と同時撮影されているんですね。つまりエフェクト等を含む編集作業のみに1年近い時間をかけることが可能だったわけで、この時差を両作品の差異化へとうまく活かした構成になっていることが窺えます。
◆父と子
作品前半では世界各地の大海賊9名による‘評議会’開催までの顛末が描かれるのですが、この会議の場で大海賊の首領たちをも黙らせる‘海賊の掟’の番人として登場する男がいます。3、4ヶ所しか出番がないもののやたらにカッコいい役柄で、ひと目みてスパローの父親だったらいいなと個人的に思いました。
というのも3人の主人公のうち鍛冶見習いだった青年と貴族出身のヒロインの2人については、前2作ですでにそれぞれの父親が登場し重要な役割を果たしていますが、本作においてはさらにそのプレゼンスを増しているんですね。そこでもしかしたらこの作品の裏テーマは‘父と子’かもなという気配を感じていたからなのですが、この掟の番人、その後のシーンでやはりジャック・スパローの父であることが明かされます。
実を言うと“パイレーツ・オブ・カリビアン”の第1作は、興行的成功を収めた一方でディズニー製作の映画としては初めてPG-12指定を受けた作品でもあったので、もしかしたらここには教育的配慮を前面に出す意図が働いたのかもしれません。しかも考えてみるとこの3人の父親、作品の根幹となる本筋のみを採り出すと必ずしも彼らが主人公3人の父親である必要はないんですね。むしろ‘父と子’の裏テーマを付加させるべく彼らの存在がクローズアップされたとみると、複雑なストーリー構成が幾分スッキリしてきます。
‘父と子’を‘継承’の問題と広げて考えると、その船の船長、その盟主、その伝統は誰が継ぐのかといったテーマが本編中でたびたび俎上にあがっているのがわかります。第2作でも登場したフライング・ダッチマン(さまよえる幽霊船)の船長も意外な人物が継ぐことに。乞うご期待。(笑)
◆船
とにかくお金のかかった米メジャー製作による大作映画、見どころの一つに視覚表現の卓越さがあるのは言うまでもないところですが、本作においては大航海時代当時の船舶や建築物の再現にもそれが活かされています。といっても見た目の質感が重要視されるので歴史考証的な厳密さは求められないわけですが、たとえば第2作以降終始不穏な敵役として振る舞うイギリス東インド会社の重役ベケット卿が登場するシーンなど、提督居室のインテリアや手にする小道具がなかなかよく出来ていて見ごたえを感じました。
また彼の乗る四層甲板の超一等戦列艦が、この映画ではすでにお馴染みのブラックパール号(快速フリゲート艦)とフライング・ダッチマンから同時砲撃を受ける場面があるのですが、このシーンなどは敵の意表を突いた戦術にアブキール海戦でナポレオン艦隊を破ったネルソン提督の鬼謀を彷彿とさせるものがあり、ちょっと感動してしまいました。ここでベケット卿が茫然としつつ艦橋を降りる場面など、リア王や『乱』における仲代達矢のごとく‘世界の王の終わり’の元型イメージにけっこう迫っていたと思います。
少し話が逸れますがこのベケット卿、史実上のイギリス海軍省の幹部(ロード・オブ・アドミラルもしくはロード・オブ・ハイ・アドミラル、海軍卿)とイギリス東インド会社の重役が意図的に混同された役柄となっているんですね。もし史実上にそんな人物がいたら、当時の世界で5本指に入るほどの実権の持ち主にたぶんなります。現代で言えば陸海空軍を手にしたビル・ゲイツといったところ。
前作の終わりでイカの怪物クラーケンによってスパローともども海中に引きずり込まれたブラックパール号、その直前のシーンでクラーケンによって別の船が両断されたため記憶が混ざりがちなのですが、破壊はされずに丸ごと海に呑み込まれていることが本作への布石になっています。本作ではとんでもない場所を信じがたい航法で進みます。これは予想しようもないシーンでした、とだけここでは書いておきます。(笑)
第2作で海中から現れるという凄まじい登場の仕方をしたさまよえる幽霊船フライング・ダッチマンについても触れておくと、この船が召喚できたクラーケンは前作でお役御免となりつつも、船首に配されたギャトリングガンをそのまま大型化したような三連装砲や、木造船なのに空恐ろしい速度で沈んでいく潜航能力など、本作でも存分に見る目を楽しませてくれています。また今回はこの船が海中から現れる仕掛けについても、ジャック・スパローの天才的というか彼らしいとぼけた思いつきからその秘密が明かされます。
◆配役その他
第3作は一応完結編ということもあり、他にもいろいろな謎が順次明らかにされます。その過程で初めてデイヴィ・ジョーンズ(軟体動物の化け物、フライング・ダッチマンの船長)をビル・ナイが演じていることに気づきかなり驚きました。CG処理で顔を覆われてほとんど目と仕草だけの演技なのですが、なるほどこういう役柄ほど実のある役者でなければ務まらないのは確かだなぁと感心も。それに比べるとチョウ・ユンファ演じる華僑の海賊を始めとする‘9人の大海賊’については、もう少し個々につくり込みが欲しかったかなとも。ジョニー・デップはつくづく立ち位置の不思議な役者だなぁと思うのですが、彼の見せ場は前作のほうが多かったかもしれません。
エンドロールは最後まで見ることをお薦めします。早々に席を立つひとも多そうですが、第2作にもあったようにおまけシーンが付いてます。構成的にはプロローグに登場する処刑台を前にした少年とかすかに呼応しており、わたしなどはここでこの映画に施されたもう一つのテーマについて‘やっぱりそうなんだ’と再確認したわけですが、その理由も観に行ったかたにはお分かりになるはず。ぜひ。(笑)
"Pirates of the Caribbean: At World’s End" by Gore Verbinski / Johnny Depp, Orlando Bloom, Keira Knightley, Geoffrey Rush, Bill Nighy, Yun-Fat Chow/ Jerry Bruckheimer [prd.] / Hans Zimmer [music] / 170min / US / 2007
とはいえこれから観ようというかたも多いでしょうから、ここではストーリーを追うことはせず、代わりにキーワードを3つ。「世界の果て」と「父と子」、「船」。では参ります。
◆世界の果て
サブタイトルにもある通り、この作品では「ワールドエンド(世界の果て)」が大きな意味をもっています。原題では"At World’s End"と’at’が付いているように、ストーリー進行そのものが「世界の果て」を主舞台として展開するのですね。しばらく前に当ブログで紹介した予告篇動画にも出てくるので記憶にあるかたもいるかもしれませんが、視覚化されたこの「世界の果て」はなかなかに凄かった。とにかく本作は視覚エフェクトの点で目を見張る場面が前作よりも増えていました。
以前にも触れましたが、この第3作は昨年公開された第2作と同時撮影されているんですね。つまりエフェクト等を含む編集作業のみに1年近い時間をかけることが可能だったわけで、この時差を両作品の差異化へとうまく活かした構成になっていることが窺えます。
◆父と子
作品前半では世界各地の大海賊9名による‘評議会’開催までの顛末が描かれるのですが、この会議の場で大海賊の首領たちをも黙らせる‘海賊の掟’の番人として登場する男がいます。3、4ヶ所しか出番がないもののやたらにカッコいい役柄で、ひと目みてスパローの父親だったらいいなと個人的に思いました。
というのも3人の主人公のうち鍛冶見習いだった青年と貴族出身のヒロインの2人については、前2作ですでにそれぞれの父親が登場し重要な役割を果たしていますが、本作においてはさらにそのプレゼンスを増しているんですね。そこでもしかしたらこの作品の裏テーマは‘父と子’かもなという気配を感じていたからなのですが、この掟の番人、その後のシーンでやはりジャック・スパローの父であることが明かされます。
実を言うと“パイレーツ・オブ・カリビアン”の第1作は、興行的成功を収めた一方でディズニー製作の映画としては初めてPG-12指定を受けた作品でもあったので、もしかしたらここには教育的配慮を前面に出す意図が働いたのかもしれません。しかも考えてみるとこの3人の父親、作品の根幹となる本筋のみを採り出すと必ずしも彼らが主人公3人の父親である必要はないんですね。むしろ‘父と子’の裏テーマを付加させるべく彼らの存在がクローズアップされたとみると、複雑なストーリー構成が幾分スッキリしてきます。
‘父と子’を‘継承’の問題と広げて考えると、その船の船長、その盟主、その伝統は誰が継ぐのかといったテーマが本編中でたびたび俎上にあがっているのがわかります。第2作でも登場したフライング・ダッチマン(さまよえる幽霊船)の船長も意外な人物が継ぐことに。乞うご期待。(笑)
◆船
とにかくお金のかかった米メジャー製作による大作映画、見どころの一つに視覚表現の卓越さがあるのは言うまでもないところですが、本作においては大航海時代当時の船舶や建築物の再現にもそれが活かされています。といっても見た目の質感が重要視されるので歴史考証的な厳密さは求められないわけですが、たとえば第2作以降終始不穏な敵役として振る舞うイギリス東インド会社の重役ベケット卿が登場するシーンなど、提督居室のインテリアや手にする小道具がなかなかよく出来ていて見ごたえを感じました。
また彼の乗る四層甲板の超一等戦列艦が、この映画ではすでにお馴染みのブラックパール号(快速フリゲート艦)とフライング・ダッチマンから同時砲撃を受ける場面があるのですが、このシーンなどは敵の意表を突いた戦術にアブキール海戦でナポレオン艦隊を破ったネルソン提督の鬼謀を彷彿とさせるものがあり、ちょっと感動してしまいました。ここでベケット卿が茫然としつつ艦橋を降りる場面など、リア王や『乱』における仲代達矢のごとく‘世界の王の終わり’の元型イメージにけっこう迫っていたと思います。
少し話が逸れますがこのベケット卿、史実上のイギリス海軍省の幹部(ロード・オブ・アドミラルもしくはロード・オブ・ハイ・アドミラル、海軍卿)とイギリス東インド会社の重役が意図的に混同された役柄となっているんですね。もし史実上にそんな人物がいたら、当時の世界で5本指に入るほどの実権の持ち主にたぶんなります。現代で言えば陸海空軍を手にしたビル・ゲイツといったところ。
前作の終わりでイカの怪物クラーケンによってスパローともども海中に引きずり込まれたブラックパール号、その直前のシーンでクラーケンによって別の船が両断されたため記憶が混ざりがちなのですが、破壊はされずに丸ごと海に呑み込まれていることが本作への布石になっています。本作ではとんでもない場所を信じがたい航法で進みます。これは予想しようもないシーンでした、とだけここでは書いておきます。(笑)
第2作で海中から現れるという凄まじい登場の仕方をしたさまよえる幽霊船フライング・ダッチマンについても触れておくと、この船が召喚できたクラーケンは前作でお役御免となりつつも、船首に配されたギャトリングガンをそのまま大型化したような三連装砲や、木造船なのに空恐ろしい速度で沈んでいく潜航能力など、本作でも存分に見る目を楽しませてくれています。また今回はこの船が海中から現れる仕掛けについても、ジャック・スパローの天才的というか彼らしいとぼけた思いつきからその秘密が明かされます。
◆配役その他
第3作は一応完結編ということもあり、他にもいろいろな謎が順次明らかにされます。その過程で初めてデイヴィ・ジョーンズ(軟体動物の化け物、フライング・ダッチマンの船長)をビル・ナイが演じていることに気づきかなり驚きました。CG処理で顔を覆われてほとんど目と仕草だけの演技なのですが、なるほどこういう役柄ほど実のある役者でなければ務まらないのは確かだなぁと感心も。それに比べるとチョウ・ユンファ演じる華僑の海賊を始めとする‘9人の大海賊’については、もう少し個々につくり込みが欲しかったかなとも。ジョニー・デップはつくづく立ち位置の不思議な役者だなぁと思うのですが、彼の見せ場は前作のほうが多かったかもしれません。
エンドロールは最後まで見ることをお薦めします。早々に席を立つひとも多そうですが、第2作にもあったようにおまけシーンが付いてます。構成的にはプロローグに登場する処刑台を前にした少年とかすかに呼応しており、わたしなどはここでこの映画に施されたもう一つのテーマについて‘やっぱりそうなんだ’と再確認したわけですが、その理由も観に行ったかたにはお分かりになるはず。ぜひ。(笑)
"Pirates of the Caribbean: At World’s End" by Gore Verbinski / Johnny Depp, Orlando Bloom, Keira Knightley, Geoffrey Rush, Bill Nighy, Yun-Fat Chow/ Jerry Bruckheimer [prd.] / Hans Zimmer [music] / 170min / US / 2007